2008年04月24日

ブラフマチャリヤと禁欲について 2

昨日の続きです。
先日私は酩酊の果てに「指、挿入ーto come home…」とかなんとか淫猥な替え歌(原曲はヘレン・メリル)をうたったりする酔狂人でありますから、なにを書いても説得力はないのですが、以下せめて皆々さまの考えるヒントになれば幸いなのです。

「感覚は苦である」。

これは仏教の四念処(悟りを得るための4つの観法)のひとつです。
まあ、不埒な私ごときがこのようなことをいうのも生意気の限りですが、性欲というのは遂げることができれば「楽」なのでしょうが、ほとんどの人はそういう機会がそれほど多くないでしょうから、自慰などを隠れてしてみるのでしょう(私のように)。
しかし、本格的なブラフマチャリヤにおいては、それもしてはいけないのです。昔、映画『パピヨン』で収容所に入れられた主人公(スティーブ・マックイーン)が、「寝るときは布団の上に手を出しておけ」と命令されていました。こうなるともう「苦」の極致なわけです。ゆえに、戒律云々ではなく性欲を根源的に滅尽してしまうことが最善にして最高の方法であり、やはり解脱が必要になってくるのですが、まあ、よほどむずかしいのでとりあえず引用でもしましょう。

●引用3:
[この方法で(射精しないで)精気を浪費しなければ、しばしば交接しても、精も気ももらさないで、そのときに起こった情欲も治まるというものだ。これは古人の教えで、情欲を無理に制しないで精気をたもつ良法というべきであろう。(中略)若いときから精気を惜しみ、四十歳をすぎてからはできるだけ精気をもらさないでたもつことは、生命の根源を養う道である。](貝原益軒『養生訓』より。)

これはほぼ『ヨガ・マーラ』と同様の記述です。女性に関しては、[女子の生理が終わらないときも(交接は)いけない]という注意があります。

●引用4:
[3.83 ヴァジローリー・ムドラー:ヴァジローリーをよく心得たヨーギーは、ヨーガの教えにうたわれている戒を守らず、思いのままに振舞いながら、霊能力の容れものになる。]
[3.85 射精し終わるや、ゆっくりと、適正に精液を吸い上げることを習熟すべし。男性はもちろん、女性でもヴァジローリーに熟達することができる。](『ハタ・ヨーガ・プラディーピカー』より。)

ここはかなりきわどい記述ですが、あえて引用しました。
いわゆる「会陰をしめる」とか、単に「肛門をしめる」や、以前書きました長嶋茂雄の「金玉をしめる(という打撃理論)」でもいいのですが、ある領域まで術を極めようとする修行者たちは必ずこのようなことを言います。武術での「丹田」の鍛錬も、ヨーガでいうムーラダーラとスヴァディシュターナ・チァクラの活用だと思われます。私たちはムーラ・バンダ、ウディヤナ・バンダといいますが。
酒場での又聞きですが、ヴァジローリー(性器による吸引)に関しては「実際見せてもらったことがある」というスナックのママさんの話を聞いたことがあります。曰く、温泉場で同伴した長年ヨーガを実践している女性が性器から湯を吸い上げたり、吐き出したりすることを自在にやって見せたそうです。
私は当時沖正広師の著作を読んでいたので、周囲の人ほど驚くこともなく聞いていましたが、ほとんどの人は話そのものを信じていない様子でした。ただし、この女性はおそらくこれを「性技」として活用しているのだと思われました。
私の考えでは、ヴァジローリーとは、修練すれば性器でさえ自在にコントロールすることができる証しなのだと思うわけです。もう少し突っ込んでいうなら、交接時に「受け身」である女性は性器を巧みに絞ったりゆるめたりすることで、男性の射精を適宜操ることができるのです。そしてこれは「女性の修行法」に相当します。

[3.88 ヨーガの道を心得た人は、かようにしてビンドゥを保全して、死を克服する。ビンドゥを漏らすことによって死があり、ビンドゥを保全することによって生がある。]
[3.90 人間の精液は心に依存し、生命は精液に依存する。それ故に、精液と心の保全につとめなければならない。]

「ビンドゥ」は精液と同義のようです。「接して漏らさず」的な考え方がここにも表れています。ふたつめの引用はかなり偏った考え方だと思います。少なくとも個人差があるはずです。

[3.98 ヨーギニー:男子が適正な行法を巧みに行なってビンドゥを回収した時、婦人がヴァジローリーをもってラジャスを保全するならば、彼女はヨーギニー(女行者)である。]

「ラジャスとは、ここでは交接時の女性の分泌物であろう」との佐保田師の解説があります。3.101には「ラジャスを回収し保全するならば、空中を歩むことができる」という記述もあります。そしてこの部分も「女性の修行法」に相当すると思われます。これはこの著作の際だって特異な記述です。
つまり、ヴァジローリーはともかくとして、女性も男性同様に「もらさない(下世話にいえば、イカナイ。多量の愛液をもらさない)」ことが健康法レベルでの禁欲的な実践になるのでしょう。そしてヴァジローリーができない限りは、「絶頂感」は男女ともに慎んでおくべきなのです。

(なお、男女の性器の不適合に関しては、角川文庫ソフィア『カーマ・スートラ』に詳細な記述がありますが、今回は触れません。)

[3.102 ヴァジローリー行の修習によって肉体のシッディを得る。この結構なヨーガは、享楽を味わうなかで解脱を与えるのである。]

「ここには、はっきりと仏教でいう大楽思想、つまり左道密教の思想がうたわれている」という佐保田師の解説もありますが、「左道密教」と『理趣経』が同一なのかはわかりません。なお、「シッディ」とは霊力とか超自然力のことです。

さて、私がここまでしつこく引用して何をいいたいのかといえば、「人間っていうのは訓練すればこの程度のことまではできるようになる」のであり、「だからせめて練習で挫折しないこと」でもありますが、同時にどこかの小冊子に掲載されていたように、ヨーガの指導者たちがセックスに関してあまりに開放的な発言をしている由縁はここらあたりにあると着目していたわけです。
確かに、『ハタ・ヨーガ・プラディーピカー』の記述はたいへん興味深いものではありますが、[未熟者が誤解する材料](渡辺照宏)にもなるのだと思うのです。あくまでも私の考えですが、ヨーガの経典というのは「玉石混淆」状態なのです。あるいは、密教であり秘伝であり、万人向けではないのでしょう。

基本的には、何事であれ時代に逆行するような選択をしたほうが賢明だ、と私個人的には思っています。過去を無限に遡ることで、未来へ突き抜けるような発想がもてるようになると思うのです。ですが、ヴァジローリーあたりの記述では、「快楽主義」しか見えないですし、せいぜい「死の克服」あたりが行き着く先として明示されているだけです。つまり、「なんのためにそれをするのか?」という動機が、きわめて粗雑であり卑しい感じすらするのです。

「中道」という観点を現代日本において考えるなら、実践するべき戒律を増やしていくこと、修習のレベルを上げていくことが重要なのでしょう。また、「シャクティ」を性的な愉楽と安易に結びつけてしまうような言説に惑わされないことも重要です。現代人はとかく「楽な教え」に飛びつく傾向がありますから。「セックスで痩せる」とか、「食べてダイエット」とか。そんなに痩せたきゃ激安ソープで働けばいいでしょう。…あ、乱暴(でもないか)。

ともかく。
現代日本人は次の「アパリグラハ(不貪)」も同様に守ることが困難でしょう。交接の喜びなど一度も感じたことのないニワトリを「若鶏」とか称して焼鳥屋で食うたろう? あなたも私も。
庭には二羽、裏庭には二羽、恨みのニワトリが「キエー、キエー、虚仮骨ッ骨ッー」と鳴いていらあ。

今の時代というのは、かなり厳しくしてようやく「中道」のとば口に立てるくらいで、自然のままに振る舞ってうまくいく人などめったにないと思います。何事も時代に応じた考え方をしないと誤った理念に傾いてしまうのです。仏陀の時代には異常なほどの「苦行主義」が存在していたはずですから、それが存在しない現代では「中道」もかなり「苦行寄り」になるはずです。

また、ヨーガの要諦に「アッビャーサとヴァイラーギャ(修習と離欲)」があるからには、私たちはそれらを両輪として、一時的にでも「ブラフマチャリヤ(梵行期)」を過ごすほうがいいのではないでしょうか。

めざせ! あのくたらさんみゃくさんぼだい。

…4/22(火)、記述。


posted by redsnake at 19:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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