就寝前。仏前でお祈り。わんたろうは「たろくんと、ちぃちゃんと、とうちゃんのかきかきの…(ぶつぶつ)」とかなんとか言っていたが、とうちゃんの仕事を心配してくれているのか。ありがたや。
外遊びなし長時間昼寝のため容易に入眠せず。それどころか大暴れ。嫁は暴発。無能のとうちゃんは電信柱の影に隠れるアキコ姉ちゃんのように見守るだけ。
翌。起床困難。外は曇天から秋晴れ。けんちん汁うどん給食、これはうまいものだった。うどんから手作りらしい。雑事の合間に『アカシャ光の叡智』できるだけ読みすすめ。
「直線的な時間内で後ろを振り返ることは、未来の形成を助けます。というのも、それによって過去を癒すことができるからです。」269頁
…直前には「そしてこの行為は、実質的に過去の出来事を別の結果に終わらせることになります」と書いてある。間違いを承知で勝手にいうなら、二十歳の頃に吉本隆明『心的現象論序説』を読んで以来、「実人生の問題を解くカギはおおむね乳幼児期に潜んでいるのだ」と思うようになった。少なくとも疎外感や罪悪感なんかが自分の人生のどこに起点があるのかを探れば、たいていは乳幼児期にヒントがあるだろうし、それ以上さかのぼるのは常人には困難だ。そしてこのような内的遡行作業は、自分の中にある「暗黒面」から目を背けていると、けっしてうまくいかない。この世の判断基準をすべてチャラにするくらいできあいの善悪の秩序を解体してしまわなければ、またぞろ幼児期のように罪悪感にとらわれ、挙げ句に虚言やら言い訳で自分を取り繕うだけだ。
恨みつらみや怒りを、内的には完全に吐き出しきっている状態に至らなければ、他者へのゆるしや、過去への癒しには行き着かない。私たちは幼児期と同じように、イヤなことを忘れたりイヤな他人を無視することで安易に自己救済するだけだ。それではほんとうの安寧は得られない。自分をごまかしているようでは、「自己愛」は歪んだままだ。けれど自分の「暗黒面」にまで突っ込むことができるようになれば、そのひとはほんとうの「自己愛」にめざめるかもしれない。
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アンタはマスクを被ってる
アンタはマスクを被ってる
アンタはマスクを被ってる
神経過敏でスマートで知ったかぶりの大卒野郎
即座にコメントする批評家どもは逆上している
どこに魂が?
どこに愛が?
どこに己が?
(イギー・ポップ、「MASK」、勝手訳)
だから文学作品を読むほうがいい。あるいはすぐれたロック作品を聴くといい。宗教関係の著作には、必ずどこかに「跳び越し」(吉本翁)と「自己欺瞞」がまとわりついている。それを検証してみたいし、教祖らがほんとうに伝えようとしたことをできるかぎり選別してみたい。
午前。児童館へ。近隣母と幼稚園話。3才児らは天空で遊戯。子どもといるほうがいいな。
午後。「アンパンマンたいそう」歌いながら、託児付きヨガへ。
長老たちが山歩きとスポーツクラブのランニングマシーンを比較して、やはり山歩きがいいというようなことを話していた。まったくもって、ランニングマシーンとはハツカネズミがくるくる回る遊具のようなものであり、私は嫌いだから、「そうだそうだ、宇宙飛行士ならともかく、あんなものでテレビ見ながら走ったフリしてなんになる、野山を駆け回れとは思わないが、犬の散歩でもしながら路地裏でパンツ泥棒でもしたほうがよほどマシだ」なんちゅうことを考えた。
シュンちゃん母子と「交通公園」へ。グループ交際というのでしょうか。またしても幼稚園話。「オレ様が子どもだったら、この幼稚園を選ぶぞ」という直観のようなものが大事ぞね。かくのごとく、パンツ泥棒は思ったのである。
オレはパンツを被っていた
オレはパンツを被っていた
オレはパンツを被っていた
そして行間で語ろうとしていた
盗んだパンツの臭いをかぐヤツと
盗んだバイクで走り出すヤツは
どっちがえらいのかなんて
わからねぇだろう
盗んだ紙おむつで走り出す
行き先もない老人が時速150キロで
盗んだバイクで走る15才の少年を
抜き去るとき入れ歯がはずれて飛んで
少年の額を咬んだとき「スピード、スピード」
アイルトン・セナが見えたのか
少年の第三の眼が開いた
「ぎゃあてぇぎゃあてぇ、坊主おまえもか」と、空中のパンツ老人いへり。
フォト:わんたろう撮影

