10.27(火)。前夜、雨やまず。しんどくなって筆記は切り上げ、「ウルトラマンカルタ」遊びと晩酌。
翌。祖父母との「ひらけモンチッチ、チェゲバーラ」幼稚園見学はなんだかんだで延期。わんたろうはポテト手づかみ喰い。とうちゃんはただ自分ひとりのために目玉焼きをこさえて、タバスコかけて喰うべし。嫁が作った珍品「揚げハンバーグ」はわんたろうが喰わないので、とうちゃんが味見。やはり畜肉は美味である。
わんたろうは近頃よく歌い、よく踊る。「ぱわわっぷ」(作、中西圭三:表記要確認)でぴょんぴょんダンス。「ストレッチマン」と「わくわくさん」(これらすべて教育テレビ)はことのほかお気に入りなのだろう。とうちゃんは保育を手抜きできるからありがたや、たたがたや。
録画した『ウルトラマンA』はハトの怪獣が登場。わんたろうは「がおがお」叫んでいたが、私はハトが昭和40年代には家禽としてけっこう流行っていて、いつからか病原菌の元だと噂されてから、都市部で野生化したのかもしれないと愚考していた。『伝書鳩ホッピー』とかいうアニメもあったし、歌手の新沼ケンジはハト好きで有名だった。それが今や、「ハトの糞害」だ。ぽっぽっぽ。昔は近所の藪にキジがいたんだぜ。リスもいたんだぜ。千葉市の話だぜ。
ゲリー本(『アカシャ光の叡智』)読。
「人間には自分自身を“愛す”能力がある。これが、人間を動物と違う存在にしている。真の自己愛の状態の中では、変化は常に発生している。この愛すなわち、自己に対する果てしない思いやりこそが、真の錬金術なのだよ。」150頁
…「自己愛」こそが最大のテーマだと思いながら書いている。もし「自己愛」がなんらの干渉や矯正を受けず、障害もなくすこやかに育まれているなら、その子はほとんど問題なく身心を発達させるのではないか。けれど私たちは自分に嘘をつくことを習慣化することによって自己正当化したり、反対に自己嫌悪から離れられずに罪悪感や自分より恵まれた他者への怨念のような感情から解放されないのではないか。
「真の自己愛」は相当にむずかしいのだろう。
自分の「暗黒面」を曝す覚悟もなくて、人前でスピーチしたりブログを書いているようでは、私たちの「自己愛」は歪んだままだ。それは『オレ様、LOVE』ではあろうが、厚化粧したりカツラでハゲを隠したりした挙げ句の「偽りの自己愛」だから、内心はびくびくしているだけだ。
そらあワイはアホや。(「ナニワ恋しぐれ」風)
そやけどな、ぴーちくぱーちくいいことばかり言ったりせんでぇー。ぽっぽっぽー。どこぞの書き手とはちがうでぇー。ぽっぽっぽー。ワイは自殺願望者やうつ病気味のだれかれに向けて書いているんや。あんさんが「自己愛」に目覚めることが、いわばワイの最大のテーマや。「真の自己愛」や。「自己に対する果てしない思いやり」なんちゅうことを、ワイらはこつこつと養ってみようではないか。あんさんはきっとユニークや。奇人変人は鬱屈するな。「劣っている」と見なされたことこそが、あんさんの面白げな特徴だべ。
午後。ゴム体操とヨガ。
どこぞのおかあさんは明るい。「近頃子どもがぜんぜん言うこと聞かない」というおかあさんは正直できらきら明るい。ゲリー少年なら、その人を包んでいる感情の色彩が見えるのだろうが、私には何も見えず、ただふんわりした感じが伝わってくるだけ。
終えて。路地裏散策。無人の「阿佐ヶ谷南公園」で遊び。秋晴れの空に上弦の月。カラスが強風にのって滑空している。かぁかぁ。どうして公園にだれもいないのだろう。子どもらが「学童クラブ」とかいうのに所属しているからそうなるのか。それとも塾通いがあるからなのか。「教育機関」はキミたちをどの程度たくましくしているのか。子どもの歓声が聞こえない公園や路地裏はなんてさみしいのだろう。犬の散歩は禁止で、野良猫は処分されるような都市はいったいだれを生かそうというのだろう。ぽっぽっぽ。
日暮れ。無人公園ハシゴして教会通りを歩いていると、上弦の月が輝きはじめた。
宵。うろうろした果てに、西友のスポーツ用品店でサッカーボール購入。さらに玩具店で、クリスマスプレゼントの下見しつつ、「KUMON(公文)」の玩具は「ピタゴラスイッチ」と意匠が似通っているかもしれないとかなんとか思う。屋上でメダルゲームに興じたのは誕生日以来だったが、またしても「大当たり」。メダルがじゃらじゃら。カジノの興奮。閉店だよ、わんたろう。とうちゃんはちかれたび。
夜。近頃筆記は長続きせず。知力体力ともになし。『トトロ』の続き見ながらダラダラ。
ところで鑑賞者はときどき幼児の視線で物語を見ることになる。そういう視点の低さを保っているシーンが度々出てくる。「まっくろくろすけ」をつかまえたメイがおばあちゃんのお尻にぶつかるシーンとか。私は子どもの頃に人ごみでよく迷子になった。違うひとについていったこともある。身長が100センチ前後の子どもには、おとなの尻あたりしか見えていないからだ。そのかわりに地面には近かったから、地上の観察能力はおとなよりはるかに高い。
トトロとはじめて会ったあとに「メイ、うそついていないよ」という訴えを、おとうさんが「ウソついているとは思っていないよ、ただいつでも会えるとは限らないからね」とさとすシーンや、日頃はおとなびている姉のサツキが「おかあさん死んじゃったらどうしよう」といって、婆ちゃんにしがみつくシーンなどは秀逸だ。
この作品では、おとなたちが子どもの心象をおおむね理解してる。全体に調和している。そして、だからこそ不満でもあるのだが、それは私の根性が歪んでいるからでもあろう。けれど現実は、理解してくれないおとなのほうが圧倒的に多いのだ。そして現在親であるおとなたちも、このファンタジーにずいぶん依存して、もっとシビアな現実を忘却しようとしていないか。
私たちは幼児期の不安こそを想い出したらいいのに。壮年期の安泰ぶりが不確かなものであることを想像するヒントにはなるだろうに。
オウムの信者さんたちはよく「潜在意識につっこむ」という言い方をしていたが、その手前で乳幼児期をしっかりふりかえって、不安や焦燥感の根源が今生のどのあたりにあるのかを探ってみればいいと、私は思っていた。それを怠ってしまうと、いきなりあの世に「跳び越し」をかけることになる。彼らは吉本隆明が「尊師」を評価した文章は読むが、代表作である『心的現象論序説』を読もうとしない。私にはそれが不思議でならなかった。要するにだれもが同じように、自分にとって都合のいい言説にしか飛びつかない。
私たちが「泣き」に入ったり、失調したりすることをほんとうに癒していくためには、いきなり「体外離脱」するのではなく、自分の嘆きや怒りを放出してしまうことにはじまりがあるのではないか。あるいは自己批判すらできないで、どうしてほんとうの「自己愛」に目覚めようというのか。ぽっぽっぽ。
…タイトルはプリンス。(日本題は『ビートに抱かれて』)
もし幼少期に父母に抱かれたあたたかみを欠いたまま、ひたすら安寧をめざすなら、自分にウソをつきとおすクセを放置したことになるのではないか。正しかろうことを言いつづけたりして。
ぽっぽっぽ、ヒトぽっぽ
ビートに抱かれて覚醒だ
人間再生ぷろじぇくと
れっつごー、くれいじー
2009年11月04日
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