「あなたのすきとほつたほんたうのたべものになることを、どんなにねがふかわかりません。」
…糞神は怒っている。2012年にどうなるか知らないが、透きとおった食べ物によって生きるように人類が進化すればいい。二酸化炭素を吸って、光合成すればいい。なあほな。
明け方夢見。ヒンドゥー教の儀式で礼拝のやり方がちがうらしく、指導者に矯正される、うるせえなあと思いながらまわりを見渡すと、数人の顔見知りがいたような気がするが、忘れた。
10時半起動。サンマ、シャケ皮、とろこぶつゆ。いい加減な健康体操して、わんたろうは嫁に任せて、ゲリー本きれぎれ読。
「何かと戦うことは、それに現実性を与えること。あなたは何かと戦っているとき、それを自分と同一視しています。そして自分を同一視するものを、あなたは出現させます。自分を小さいと感じたり、寂しいと感じたりすることを、怖れないことです。あなたの最大の強さは、あなたの最大の弱さから生まれてくるのですから。」(『アカシャ光の叡智』135頁)
…「あなたの最大の強さは、あなたの最大の弱さから生まれてくる」ということをくり返してみたい。どんどん次へ。
午後。久しぶりのチベット語講座は少人数。
宵。嫁の知人が3人来訪していて、わんたろうはずいぶん遊んでもらったようだ。私も若いエキスを吸うべく、筆記中断。
10/26(月)。終日雨。けっこう寒い。カメもザリガニも身動きしない。
前夜。ヤドカリは手玉のように弄ばれた。災難であろう。しかし若人はいずれも優しげであり、「勇気の鈴がリンリンリン」なのかもしれん。一方私はどうか。バイキン的ではないか。さればとて、なんの脈絡もないが賢治さんの文章を読んでもらう。それはこげな文章である。
「わたしたちは、氷砂糖をほしいくらゐもたないでも、きれいにすきとほつた風をたべ、桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます。/またわたくしは、はたけや森の中で、ひどいぼろぼろのきものが、いちばんすばらしいびろうどや羅紗や、宝石いりのきものに、かはつてゐるのをたびたび見ました。/わたくしは、さういふきれいなたべものやきものをすきです。」
(『注文の多い料理店(序)』の冒頭、ちくま文庫『宮沢賢治全集 8』)
「あなたのすきとほつたほんとうのたべもの」とはなんだろう?
絹豆腐かな、コシヒカリかな、冷麺かな、それとも永遠の真理かな、善悪の彼岸かな。ああ、願わくば人類が光合成できるようにならんことを。
翌。眠気やまず。ムチ打って起動。『三昧王経1』読。
「…その称讃に追従するならば、彼は仏の知恵を修練した菩薩とは言えない。」141頁
…、あーうー、わたしをほめてちょうだいな。否。たまにはほめてちょうだいな。否。やはりなんといっても罵倒してくださいな、毛皮のヴィーナスよ。「抜け毛のめっかち、貴様好色のうえに怠け者であろう、挙げ句にアホダラ経を唱えるであろう」、ムチでぺしぺし。…そのようなことは、実に気色がいいであろう。サイコー、プシコー。
わんたろうは「フジッコ」のこんぶ、とうふなどをめずらしく喰う。さらに親指を立てて「おいしいねー」だとさ。近頃やるな、おぬし。もう給食を選ぶ必要はなさそうだな、と、何度目か思う。
雨はやむ気配なし。ならばとて。保存してあった『めばえ』付録の「アンパンマン・カルタ」などで家内遊び。「け」=「けんかはやめようばいきんまん」とか、「て」=「てをよくあらうよてんどんまん」などという、まったくもって幼稚な読み札をけっこう真剣に読みながら、「ああオレ様はなかなかやさしげなとうちゃんであるなぁ、けれどもわんたろうは集中力が持続しないものだなぁ、そういうところはふたおやも同じなのだなぁ」などと思ったり思わなかったりしつつ、終了してしまうと手持ち無沙汰であるから、「わんたろうよ、ウルトラマンAでも見るか」とか、「クレヨンしんちゃんはどうだ?」なんちゅうことを提案しては、できるだけ雨の中手抜き保育をして自分は読書に耽ろうという魂胆だったのだが、わんたろうはどこぞからおもちゃを引っ張り出してきて、「これやぅよ」というのは舶来の『きかんしゃトーマス』であり、それはいつぞや近隣のグレート・ブリテン人の紳士から頂いた物品である。ややこしや、ややこしや。説明書は紛失したため、箱の絵柄を見ながらそれらしく組み立て。英語と仏語と独語と蘭語とスペイン語で書いてある遊び方はなんとなくしかわからない。ついでに「メイド・イン・タイランド」。ならば、タイの恩人のために、なんとしてもやりとげねば。
ねばーぎぶあっぷ。私はややこしいおもちゃの組み立てをいつしか完了し、やれやれ一服。
「午前中はどうにかしのいだが、午後はどうするべ?」と考えた挙げ句、四谷三丁目の「おもちゃ美術館」へ。丸の内線でわんたろうは入眠したが、前進。きれぎれにゲリー本(『超入門アカシックレコード』)。
「コントロールされていると感じるもの、十分にリラックスすることを妨げるものがあれば、その習慣を変えていく必要があります。」269頁
…。(瞑想タイム)
上記について、なんとなくでも考えてみましょう。よくわからない罪悪感とか、恥辱感とか、「正しくあろう」という意志は、私たちをコントロールすることはあっても、ほんとうの意味でリラックスさせることはありますか。たとえば「八支則」や「八正道」はあなたを十分にリラックスさせていますか?
ぬれぬれの あつき血潮に ふれもみの
しゃぶりなめなめ 淫ら腰巻き
貸切「四谷ひろば」帰路。強風寒雨。
丸の内線荻窪駅のベンチでわんたろうにぶどうジュースを飲ませていたら、背後の車両に小学生が眠りこけているのが見えた。「この子は今乗車して休んでいるのかどうか」を少し考えて、そうではないと即座に結論したので、わんたろうを放置して電車内に入り小学生を起こそうとしたが、簡単に起きない。まるで気絶しているようだ。まさかゲリー少年のように飛んでいるのではなかろう。「終点だよー」と揺さぶったら、どうにか起きたが焦点が合わない様子の視点を定めた瞬間にはっとして、私の顔を一切見ることなく改札方向に去っていった。「あのこどうしたの、とうちゃん?」、 いつのまについてきたわんたろうが 言う。「低学年だろうに、ずいぶん疲れているみたいだったね、眠りこけていて起きなかったよ、まるで泥酔状態のオッチャンみたいだった」。
子どもたちが壊れかけている。
そこまでして優良(だと噂される)小学校に通学させたいのか。もっと安楽にしてあげればいいのに、道を説くキミ。
私はもう一度ベンチに座って、彼の幸福を祈りながら、わんたろうにゆっくりぶどうジュースを飲むようにすすめた。
フォト:四谷ひろば

