翌。近頃では早起きだろう7時過ぎ。『三昧王経1』読。
「いかなる人も家庭に住みつつ、しかも最高の精神的な供養を実践することは不可能である。」125頁
…だから独身者は最高の境遇であろうし、もっと飛躍すれば路上生活者への同情は畏敬に変わることもあるだろう。絶対の平等心にいたろうとするなら、「家庭の幸福は諸悪の根源」(太宰治)という逆説的な言い方が身に染みるようでなければいけないのかもしれない。
朝飯。ミートボール入りナポリタン風スパはとうちゃんのみ喰う。わんたろうはシャケかじり、せんべいかじり、ミカンを少々とミロ牛乳。録画の『ポニョ』やら『クレヨンしんちゃん』見ながら午前中しのぎ。「しんちゃん」ははじめて予約録画したが、おとなが見ても面白いと感じた。言葉のやりとりが絶妙なのだろう。テーマは「婚活」だったり、「草野球」だったりするが、
「とうちゃんは草野球で2割5分のバッターなんだぞ、オレに任せろ」
「それってどういう数字なの? すごいのかどうかわからないよ」
「うーむ、確かに」
…というようなやりとりには、原作者の確かな力量を感じる。父親は微妙にバカにされていたり、母親は些細なことでイライラしたりする様子が巧みに描写されている。そしてこのような家族関係はおおむね現代の最大多数の家庭像に合致しているはずだ。だから親が見てもリラックスする。この漫画を「悪」だと見なす親とは、子どもが親の本心を見抜いているということを認めたくないから見せたくないだけだ。「母みさえ」と「息子しんのすけ」の関係には圧倒的な開放感があるのだということを認めることができないのではないか。なにを恐れているのか。そして恐れていることをどうして認めようとしないのか。親が言い負かすその都度に、子どもは緊張のあまり心を収縮させたり、「正しさ」を狭く解釈することを強要されるのだと感じたことはあるのだろうか。なあ、みさえ、そこんとこどうなんだ?
昼からヨガ。
となりの保育部屋からクレイジーな嬌声が聞こえるほどに安堵する。
ママたちの噂では、どこそこの幼稚園がインフルエンザで学級閉鎖になったとか。けれどその幼稚園は駅近辺で延長保育があるから、働いているおかあさんが多いのだと、ならば学級閉鎖は参ったことであろうと。
ああ、なるほど、その幼稚園は知っているし、あまりいい印象ではなかったのだ。ほんとうはなんらかの自己実現をしたいような母親が、子どもを長時間預けることが可能な施設として選択するのだということを明白に宣言することもできない欺瞞を見切っているのだけど、そういうことを個々に伝えることはどれほど困難か。「あの幼稚園はやめたほうがいい」ということを、どれくらいソフトに伝えることができるかは、相手の確信と迷いがどう揺れているか次第であるし、個人的に伝えることは余程むずかしい。聞く耳などない。いずれあの世で話し合おうか。
終えて、弁天池公園へ。
紅毛人が草っぱらにマットを敷いて「ド根性ヨガ」に励んでいる。私はタバコを吸いながら、「足の幅が広すぎるよ」とか、「だいたいでいいんだからもったいつけるな」とか、「うほほーい」とか、心の声を送っていた。
たまたま会った兄妹風の男児と女児は不思議なカップルで、兄に聞いてもぼんやりとしか事情がわからない。けれど兄は私に「おじさん、かけっこしようよ」と誘うので、原っぱのへりからへりまでヨーイドンしたら、情けないことに完敗した。その後も兄は不思議に私にナントカごっこをせまるが、実にわんぱくであるがゆえに頼もしくもあり、わんたろうも適宜刺激を受けている。
ようやく保護者らしき女性が来て、「これこれこういうわけで、この子たちは別に兄妹ではないけれどそうであるかのように仲がいいのですが、それはアレだから」とおっしゃるからには、そのアレとは、ワイルドかつタフなあれですか、などと問い、ちぐはぐなやりとりは次第に合致してきて、どうにか東南アジア的なアレだということが明白になり、「ならばイッパツやりましょう」とて、電話番号を聞くという行動を活発にやったのである。
どうだ?
オレは走り出すとけっこうやるぜ。
だけど銃もゴム製品ももってないぜ、オレはいつでも丸腰だ。
てきりぃずぃ。
てきりぃずぃ。
てきりぃずぃ。
(ボブ・マーリィー、「アイアン、ライオン、ザイオン」「イージィ・スカンキング」より私用)
フォト:弁天池公園上空
10/21(水)。前夜。幼稚園話で酩酊。筆記難儀。
翌。家庭の円満が三昧をそこなうのか、単に虚弱のせいなのか、近頃読書貧困。とりあえず『三昧王経1』。「そうではなくて、まさしく法を思念しているのである」129頁。幼稚園選びであれこれ考えるのではなく、ワイは真理を追究したいのだが、その途上に幼稚園選びもあるので手抜きはできないのかどうか。凡夫。いちじるしく凡夫。
休日の嫁と本天沼の少人数特殊幼稚園へ。昨日公園で会った女児は笑顔でコンタクトしてくれた。私にはむずかしい教育理念はわからないが、約2時間園児らと同じ教室にいて、自分自身が体験を深めるような感覚があった。幼稚園というより、私塾とか寺子屋というほうが近い。残念なのは園庭がないことだが、「私塾」というのはそういうものだ。「高尾山に連れて行きなさい」と、園長先生がおっしゃっていたのは印象的だった。
昼。スカイ一家と妙正寺公園で昼食がてらひと遊びして、中瀬幼稚園説明会へ。
はじめて園内に入ったが、自然の地形をミニチュアにしたような園庭で、雑草も含めて多様な植物が繁茂していて、築山があるが雑草やらで荒れ放題の様子が実にタフネスでありワイルドであり、この園庭は別格であるという印象を深くした。
だからこそ、この園庭は園児限定利用にとどめるのではなく、有料でかまわないから、せめて週末だけでも開放してくれたらいいのに、と思った。
私には幼稚園時代の記憶がほとんどない。想い出すのは嫌なことだけだ。そして消えてしまった記憶は、もっと嫌なことだったのかもしれないし、なんともわからない。だからいつでも公園で会う幼児に、「幼稚園はどこ? 楽しい?」と聞くが、たいていは「楽しい」としか答えないから、その子の表情やわんぱくぶりや年少児への優しさによって憶測するしかない。
少なくとも私の経験はまったく参考にならないから、幼稚園を見学するだけだ。さいわいなことに、現代の杉並区ではあれこれ選択できるのだし。
わが子である幼児の教育保育を専門家に依頼するのであるから、その専門家が口先だけの不実な経営者であるか、それとも本気で幼児教育に熱意をそそいでいるボサツ的人物なのかどうかくらいは見極めたほうがいいのだろう。
てきりぃずぃ。
ゆるやかなリズムに身を任せ
心の鎖を解いていこう
時間と空間の枠を超えよう
魂を高く飛翔させるのだ
それがイージィ・スカンキング
(アルバム『ナチュラル・ミスティック』より、山本安見訳)
フォト:中瀬幼稚園

