2009年10月26日

愛欲マニア。09.10.19(月)。

10/19(月)。早朝。宇宙の気配はないが、空を覆うほどの鳥の大群が高地に逃げていくのが見えて、「何かの予兆だ」と感じた直後、水平線の向こうから黒雲が舞い上がり、巨大な手の平の影絵が追いかけてくるように空が黒くなっていった。逃げまどう人々。ヒッチコックのごたる、なにがなんだかパニック夢。

阿呆のように朝寝。しかし残像だけは明瞭。『三昧王経1』読。

「けっして愛欲を追い求めることなく、妻子に愛着を起こさず、厭離すべき家庭に仕えることのない人、そういう人は最高のさとりに達するであろう。」119頁

…これをば凡夫が適宜言い換えるなら、妻子への愛着を他者にも同等に及ぼせばまあまあであろうが、たとえば今どきは流行性感冒がはびこっているらしいから、他人の子どもがクシャミをした途端にわが子を引き離したりという、過剰反応をする親もいる。野口英世の金券が泣くぜ。うつるときはうつるし、予防するにもほどがあるだろう。自分の家族だけが安穏ならそれでいいというほどの愛着なら、結果他者を敵対するのがオチだからやめたほうがいいだろう。「最高のさとり」はともかく。

納豆めし、シャケ皮、とろこぶつゆ。わんたろうは嫁の手作りポテトフライとミロ牛乳。(昼に手作り豆腐コロッケ丼、わんたろうはシャケごはん。まあまあ食べてくれた。)

体操クラブから帰宅して、「ねむい」というから寝床でゴロゴロ怪獣ごっこしていたが、いつまでもやまず。久しぶりに西友屋上へ。しかし、遊びは発展しない。いつもの公園でよかったか。玩具売り場もすぐに飽きてしまった。

「拡大したレスポンスこそ、覚醒へとつながっていきます。」(ゲリー・ボーネル『超入門アカシックレコード』、169頁)

…やさしい言い方だが実践するのはむずかしい。わんたろうが「こうえんいくよ」というのは、ここ数日の口癖でもあるから、たまには違うところへ行こうとしたのは私自身の抵抗感が主な動機だったのも確かだ。

「出来事は学ぶために起こっているのではない。私たちは人生に対して反応するためだけにここで生きているのです。」(179頁、要約)

…ここはすごく超越した言い方だと思う。既存の宗教は無論、「セス」ともちがうのではないか。そして吉本翁の『最後の親鸞』とニュアンスが似通っているのではないか。学ぼうとすると必死に努力するときがくる。けれど「反応する(レスポンスする)」のだとしたらどうなのか。たとえばランダムに引用する。

「〈わたし〉たちが宗教を信じないのは、宗教的なもののなかに、相対的な存在にすぎないじぶんに眼をつぶったまま絶対へ跳び越してゆく自己欺瞞をみてしまうからである。」18頁

「念仏をとなえても、嬉しい気持にもならないし、すみやかに往生をとげて浄土へゆきたい気もおこらない。浄土教がいうように、浄土がそんなによいところなら、これはおかしいことではないか。こういう疑念にたいして、そんなことをかんがえるのは信心が足りないからだと応えたとしたら、ただそこらへんにある〈宗教〉にしかすぎない。なぜなら、こういう応えには、たんに自己欺瞞がふくまれるだけではなく、信心の強弱をめどにして、ひとつの価値の秩序が形成されることになるからだ。そしてこの秩序を上昇するために、自らを鞭うって〈信心〉を固くするための修行をおこなうことにもなるだろう。これは、絶対他力の意趣にそむくものだ。

…(中略、「下品」の「下生」の者に着眼し…、)むしろこの〈信心〉の秩序を逆転することに精髄があるはずである。」31頁

…「信心の強弱をめど」にしない既存の宗教はほとんどない。もしレスポンスやら意識を拡大していくのだとしたら、私たちは毛嫌いする宗教にすら心を開いていなければいけないのかもしれないし、反対に宗教やヨガ組は、「下品」の「下生」に眼を向けてみるべきかもしれない。

インフルエンザが移ることを恐れて病者を避けるくらいなら、反応が「収縮している」だけだろうし、病死を恐れるあまりに「先延ばし」しているだけかもしれない。

「ただそこらへんに」ありがちな正しさに惑わされることなく、生きようぜ病者。愛しているよ、病者。疲れきっただれかさん。

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フォト:光明院、西友屋上
posted by redsnake at 20:55| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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