10/14(水)。前夕。知人にプレ幼稚園がわりの「体操クラブ体験」を勧めているとき、路地の向こうに夕陽が沈んでいくのが見えた。
子どもを「疲れさせる」というのは、単独の母親の言葉ではない。都市部ではやむをえないのかもしれないが、「遊ばせたい」とか、「自由に運動させたい」という発想にどれほど近いのか。「疲れさせる」とは、「満足するほど遊ばせる」と思うことと同等なのか、少なくとも「五感を育てる」という感覚からは程遠いだろう。私たちは別に「いい親」を演じる必要はない。手抜きをしたいときもあるのだから、そういうときは「疲れたから休ませて」と、正直に子どもに言えばいい。あるいは「今日は育児放棄するぞ」と宣言してフテ寝すればいい。
嫁と夜話。「世界がモノクロに見えるというのか、色彩とかデザインに関する美的感覚が欠如しているというのか、半ば廃人というのかわからないが、本以外になにかを欲しいと思うことがますますなくなっている。これはうつ病の症状なのかね?」。回答は記憶なし。
翌。嫁が休日ゆえ、いつも以上に朝寝。「とうちゃん、あさだよ、おきなさい」と、わんたろうに促されて起動したのは10時。無気力状態はつづく。されどブッダ。「三昧とはどのようなものでしょうか?」という問いへの答えは44もあるが、そのうちのひとつとして私が近づいているものはない。軽躁にして粗悪。
手作りピザ食。美味。わんたろうはそれをば食わず嫌いで、いつものシャケごはん。
午前、体操へ。嫁の参観は入会時以来。とうちゃんは河合隼雄本、少読。
「ほんとうに離れるためには、一度どっぷりつかることが必要である。」
「幼少時に母親とうまく「どっぷり」体験をもった人は幸福である。」
「どっぷりつかるのと溺れることとは似ているので、そこには恐怖感が伴うこともある。…本当に「どっぷり」体験をしようとする人は、恐怖を乗りこえる体験をする点でも意味があるとも考えられる。」
(新潮文庫『こころの処方箋』、144-145頁)
…乳幼児期に十分な愛情によって育てられた子どもは、「心のベースキャンプ」を堅固にしているのだと、勝手にくり返してみたい。また、「甘やかし」や「スポイル」を過剰に気に掛ける親の本心をとことん探っていくと、実は自分自身の乳幼児期を振り返ることへの恐怖心があるのかもしれないと思える。子どもに一切自己投影しない純粋な母性のようなものがあるなら、子どもは安心して愛情にひたりきって、タフネスを養成しているはずだ。
「西松屋」への移動中、断続的に不快感と倦怠感が襲ってくる。車の行き来が激しい通りを選んだせいなのかどうか。買い物を終えて、妙正寺公園を通り過ぎるときにキンモクセイの巨木が見えた。「アスファルトと排気ガスが気鬱を招いたのだ」と思ったが、そのまま帰宅して闇にこもる。「とうちゃん調子悪そうだよ」と嫁が気遣ってくれるが、「サッポロ一番みそラーメン」をわんたろうと分け合って喰い、ダラダラ昼寝。たぶん眠ったまま死ぬのだろうと、暗い願望を抱えながらも、わんたろうの行く末を夢想して奮起しようとする。
宵。ゲリー・ボーネルの「5次元文庫」(『超入門アカシックレコード』)読みはじめ。
これはまたすごいでしょう。
2009年10月23日
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