6/30(火)。前夜。母子不在のため、映画感想文だらだら筆記。読者は3人いれば上等だ。夜半に雨の中、豚脂ラーメン喰いに。中原中也はなぜかラーメンの友。
ひょっとしたなら昔から
おれの手に負へたのはこの怠惰だけだつたかもしれぬ
真面目な希望も その怠惰の中から
憧憬したのにすぎなかつたかもしれぬ
ああ それにしてもそれにしても
ゆめみるだけの 男にならうとはおもはなかつた!
(憔悴、「山羊の歌」より)
同じ箇所ばかり読んでいる。わんたろうがいないと生きている気がしない。乱文書いて送信して、それでおしまい。怠惰。夢みるだけ。帰宅したら、ネコがにゃあにゃあ鳴いていた。寝床で二十年ぶりにつげ義春『無能の人』。「おれはとうとう石屋になってしまった」、「ほかにどうするアテもなかったのだ」(第一話「石を売る」)。…オレはとうとうブログ野郎になってしまった。他にどうするアテもなかったのだ。…このブログ稼業だってまるでシロウトだ。本を読んでちょっと知識を仕入れてはデタラメを書くだけなのだ。ただ元手がかからないということが、オレに向いていたのかもしれない。(盗用)
翌。だらだら朝寝。シュタイナー少読。「どんな人間の中にも、感覚的世界を超えて、より高次の諸世界にまで認識を拡げることのできる能力が微睡んでいる」、「そしてそのための指針を与えることができるのは、すでにその能力を身につけた人だけに限られる」21頁。(『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』高橋巌訳、ちくま学芸文庫)
夜中に豚骨ラーメン喰うヤツがどうこういうことではないが、ステテコ・ヨガにはその能力をもつ指導者はいるのだろうか。いずれにしてもぴょんぴょん跳んでいるだけでは「超感覚的」にはなれないのだから、それが行法の主体になってはならない、ということを夢みがちの私は主張してきた。真っ暗だったりブラインドネスに近い状態なら、「現代人らしからぬ感覚」ぐらいは磨けるはずだ。ジャンプしたり逆立ちがうまくなりたいのか、それとも時空を超えたいのか、アホだと思われてもいいからそうしたいのか、なぜそうしたいのか、時代がウルトラマンを必要としているからだ、もはや一刻の猶予もならないと誇大妄想がやまないからだ。健康や長寿が目標ではない。中原中也は30才で死んでいる。私たちは十分長生きだし、今が余生だと思うならもっとちがう目標を持てるはずだ。しゅわっち。
♪
勘違いにまたがって、そんなに気持ちいいのかい?
ボクは下りるよ、おつかれさん いつまでもお元気で、バイバイ
(「僕は僕のために」RCサクセション、表記は引用者)
子供用の中古ビデオ買って、西友屋上で読書。江川卓のラスコーリニコフ解読本。午後からママさんヨガ。だれかは3人目をみごもったらしい。ことぶき。タフな母親は息抜きもうまいし、子育てを楽しんでいる。どこぞのブログ野郎とはちがう。夕方、タイラーメンと冷や奴食。ごろごろしながら、児童書「ガンジー伝記」読了。ヒンズー教徒とイスラム教徒の争いは、その後どうなっているのか。
7.1(水)。前夜。母子迎えのため青梅街道へ向かうとき、近道のつもりでパチンコ店に侵入してみた。ほとんど爆音にちかい大音量が響いていて、ほぼ満席だった。ギャンブルは勝たなければ意味がない。何度もいうが、少なくとも簡単な損益表を作成してみることだ。「○月○日、○時〜○時、+5千円」とか。常時やりながら勝っているひともまれにはいるのだろうが、平均すれば「月間マイナス5万円」くらいではないか。ストレス解消の費用が月額ウン万円だったら安いというのか。私はギャンブルを否定しないが、現況のパチンコには創造性を見出すことができない。うつ病を抑制しているのだとしたら、それはそれでありなのかもしれないが、最低限勝つことだ。そして勝っていたとしても、月額プラス5万円で、遊興時間が1日平均5時間以上だとしたら、「たいしてプラスにならないことに人生の貴重な時間を相当費やしている」ということに気づくのではないか。ヒマつぶしのために生まれてきたんじゃない。けれど魔性を探求するなら、とことんやってみればいい。
帰宅して。バースデーケーキ囲んで団らん。「はっぴばーすでーつーゆー」、わんたろうはそれらしくうたう。ロウソク吹き消すのもわんたろうだが、肝心のケーキは食べない。生クリームを食わず嫌い。
うたげのち、筆記送信。独り寝はつげ漫画読。「父ちゃん迎えにきたよ」というセリフがせつない。
翌。シュタイナー読。
「…われわれは外面的な文明生活において得たもののために、それに相当する犠牲を高次の認識活動や霊的生活において支払わなければならなかった」
「誰かと出会い、その人の弱点を非難するとき、私は自分で自分の中の高次の認識能力を奪っている」
「あらゆる事柄の中の優れた部分に注意を向けること、そして批判的な判断をひかえること」(『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』28-29頁)
…私は自分が凡庸であることは重々承知しているつもりだが、どこかで人の上に立つニセモノたちを批判することは、より多くの愚直なだれかを救うことになるのだと思いこんでいるのだろう。あるいはなにかを得る過程で、それに相当するなにかを犠牲にしたことを偏執的に書きたいだけだ。私たちが喪失したのは、「高次の認識活動や霊的生活」だけではない。もっとそれ以前に取り戻すものがあるはずだ。
(とうちゃん、むかえにきたよ)
とりあえず、めしを喰う。わんたろうはシウマイの肉を、父は皮を分け合う。舌平目のムニエルというのは、少年時代に『世界の料理ショー』で見たことはあるが、味見したのははじめてだ。(昼もほぼ同じ、プラスわかめのみそ汁。)
「午後雨」の予報のため、外出せずだらだら保育。児童館に行きそびれたが、わんたろうも要求しない。昨日買った安価中古ビデオ『千と千尋の神隠し』上映会。きれぎれ鑑賞。
産経新聞に「ネトゲ廃人」なる記事、興趣。毎日数時間ネットゲームに熱中した挙げ句、退学や退職したりする人が増えているのだと。パチンコに似た中毒症状なのだろう。いいか悪いかは別として、「ディスコミュニケーション」が根底にある。「チャット」というのか、そういう言葉のやりとりでどれほど本心を伝え合うことができるのか。議論の訓練にはなるだろうが、ほとんど議論にまで発展しない。だれもが『千と千尋』の「カオナシ」状態で書き散らかしているか、一方の意見に偏りすぎている。ミクシイはそういう感じになる。
「誰かと出会い、その人の弱点を非難するとき、私は自分で自分の中の高次の認識能力を奪っている」ということを踏まえて、それでもさらに突き進んでみようという度胸まであるのかどうか。
夕方。嫁と合流してユニクロでズボンを買ってもらう。さらに屋上遊戯のあいだ、雑読しながら居眠り。常時夢幻。トンネルを抜けたら、そこは異界、…だったらいいのに。
(とうちゃん、むかえにきたよ)
(もう読者はいないよ、ぼくとあそぼうよ)
(世界と断絶しても、ぼくはとうちゃんのともだちだよ)
(わざわざ嫌われるようなことばかり書かなくてもいいだろう、ねぇとうちゃん、ねぇとうちゃん、)
2009年07月10日
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