♪
聞こえない歌を繰り返し聞かされる
薄っぺらい希望に俺たちは躍らされる
ミリオンセラーの彼女の作り笑いが笑う
(「世の中が悪くなっていく」作詞・作曲:忌野清志郎)
6/27(土)。「ねこまんのたっきゅみんさん」。わんたろうが路上で何度かそういうので、指さす方向を見ると「クロネコヤマトの宅急便」の車両がとまっている。「ああそうか、ねこまんのたっきゅみんさんって、そういう意味なんだ」、「うん、ねこまんのたっきゅみんさん、かっくいいね」、「へえーそうかい、じゃあ今度かっこいいって言ってあげると喜ぶよ」。
前夜。「いい年こいてディズニーランドに行きたがるオッサン」というのは追悼としては不適だが含みがある。そもそもマスコミ批判だ。
翌。眠気やまず。炊き込み飯はわんたろう喰わず。ダラダラ保育で録画した『ドラえもん特番』見せるも、興味は続かない。とうちゃんと同じかどうか知らないが、なんでのび太に「お世話ロボット」が必要か。そもそも『ドラえもん』の最大の特徴は、「父母のかげが薄い」ことに尽きる。だから子どもがのび太に自己投影してみるようなら、ふたおやは危機感を抱いておくほうがいい。ドラえもんは母性を喪失したのび太や子ども達の空想の産物だ。小学生である「しずかちゃん」が「のび太さん」という敬称を使うのも不自然だ。徹底していじめられた果てに逆襲してみればいいのに、のび太はいつでも「仮想母」であるドラえもんやしずかちゃんに見守られているだけだ。
♪
母親に見捨てられた まるでそんな感じ
いったい何が起こってる 大人たちは真っ青さ
(「世の中が悪くなっていく」)
体操クラブのあと、「ジャブジャブ池」のある井草の森公園へ行くつもりだったが、「光化学スモッグ注意報が発令されました」という、たぶん消防署のアナウンスがあって、「わんたろう、光化学スモッグだってさ、しばらく家にいようか」というと、「おうかくもうす? いくよいくよ」、「いやそうじゃなくて、光化学スモッグだから行かないほうがいいんだ」、「おうかくもうす、いってみゅか」。…うーむ。こうなったら、行くしかないべ。
炎天下自転車移動。けれど井草の森公園は木陰が多いので、着いてしまえば光化学スモッグを気にすることもない。で、わんたろうは人口水流で岩登りしたりしてワイルドに遊ぶ。父はもう少し軽装で来ればよかったと思うが、どうにかついてまわって、「ファイト一発!」。近頃リコーGRは不調で、ここぞといういい瞬間が撮れない。
遊具では、わんたろうが果敢に近隣の小学6年生グループにからむ。彼らは優しいが、わんたろうはほとんど相手にならないのにかまわず「ガオガオ」叫びながら突進している。まったく人見知りしない。無視されてもてんでめげない。すごいパワーだ。
一方で、大したことないのにぎゃあぎゃあ泣きわめいて被害者ヅラする幼女もいる。私はめんどくさいから、「ごめんごめん」といいながら、わんたろうに謝ることを強制するでもなく、「こんなの大したことないよ、だいたいキミたちが先にわんたろうを排除しようとしたり、つまらない理屈をこねてはわんたろうを詰ったりしただろう、それでいてちょっとつかみ合いになると堪え性もなく泣きわめくだろう、そういうキミたちやキミたちの親のあり方をあらためたほうがいいんだよ」と、心の中で思っていたが言うはずもない。もうすでに親の屁理屈に影響されているから、即時に飲み込ませることなどできない。
夕方、帰路。路上の花はノウゼンカズラ、ギボウシ、サルスベリ。井草湯はどうやら営業しているようだ。そばに巨大なソテツ。わんたろうは自転車の上で「吟遊詩人」のバゲットをかじりながら「さいこー、さいこー」とか、「うまい」とか叫んでいる。
帰宅したら、しまじろうの教材が届いていて、わんたろうがめざとく発見したため、引き続きしまじろうであそび。「いたいのいたいのとんでけー、だと。庭で転んだくらいでいちいち大騒ぎするな」とか、「なんだこんなくだらねぇこと書きやがって、スズキコージを見習え」とか、文句言いながら読み聞かせ。わんたろうはそれでもけっこう喜んでいる。「まいったなぁ」というくり返しは、きっととうちゃんの口癖なんだろう。
6/28(日)。前夜。疲労のため筆記不能。送信も修正不足のまま。矢野顕子のDVD見つつ晩酌。つげ本寝読。睡眠不良。
翌。寝起き悪し。わんたろうはすでにはしゃぎまわっているが、父はうつっぽいのが治らない。近頃熟睡できたことがない。ヤントラ・ヨーガの独習は不実行。とりあえず、テキストを手元如意とする。
テレビでは元気なタレントがやたらとデカイ声でしゃべっている。東国原知事は総理になりたいとか。誹謗中傷に負けるな、早くなっておくれ。あなたはだれより適役だ。
母子は今宵から里帰り(といっても練馬区)。しばしの別れ惜しみつつ、父は午後から神田で語学。終えてベローチェで予習。さらに『罪と罰』(工藤精一郎訳、新潮文庫)、とりあえず読了。しかし読解困難のため、駅近の「啓文堂書店」にて、『謎とき「罪と罰」』(江川卓著)購入。ラザロの復活はどういう意味合いなのか。「殺人者と娼婦」であるラスコーリニコフとソーニャの関係はふつうの恋愛とは程遠い。「ぼくたちは二人とも呪われた人間だ」95頁。
「しかし、彼は自分の罪に悔恨を感じなかった」474頁
「熱病の悪夢」から「新生活への更生」へ。〜483頁
…ある種のよみがえりの物語であることはまちがいない。「罪」人は刑罰によって改悛するのではなく、改悛したり考える時間をあたえられることがあるだけだ。そしてもし、地獄への恐れが改悛を促すのだとしたら、既存の宗教に取り込まれているだけだ。それがまぼろしでないといえるのか。ラスコーリニコフは「軽薄な希望などはぜんぜんもっていない」470頁
「薄っぺらい希望に俺たちは躍らされる」(忌野清志郎)
ラスコーリニコフはやわな反省をしているのではない。なにが「sin」でなにが「crime」なのか。私たちはどこがギルティで、どこがイノセントなのか。罰はどこにあるのか。だれが下すのか。今悲惨なだれかは、転生の果ての罰を受けているのだというなら、そういう宗教は下らないだけだと見なせばいい。私たちは各自の「課題を抱えている」かもしれないが、善をなしているときにそれが克服されるのではない。そもそも善が不明だ。善はたいてい口うるさいだけだ。
宵。オリンパスペンFTがふとしたことから見つかった。更生しようか。
2009年07月07日
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