2009年06月30日

あなたと夜と阿呆陀羅経。09.6.22。

6/22(月)。曇りのち雨。前夜。臓器移植話は乱雑すぎたか。夜半につげ漫画(『李さん一家/海辺の叙景』ちくま文庫)読了。「旅に出ると、自分は何処の誰でもないという解放感を味わいますよね。旅はいずれ戻るけれど、蒸発は戻らないから、もっと極限状態になる。(中略)社会と縁が切れ、社会との関係で規定されていた自分から解放される」(「峠の犬」、作者解説)。

…「解放感」なのか「寂寥感」なのか。ひとによっては後者でしかないのかもしれない。そもそも「社会との関係で規定」されているという気分を理解できないひともいる。そういうひとは会社が倒産でもしない限り、「解放」されないだろうが、それでもまだ「解放」であることに気づかず、地団駄踏んで悔しがったり、絶望したりするのだろうか。自分の身分が規定されていないと安心できないひとは多い。それは現代病かもしれない。

「空の鳥を見てごらん。まかず、刈らず、倉にしまいこむこともないのに、天の父上はそれを養ってくださるのである」(マタイ、6-26。「生活の心配をするな」)

大学を卒業してすぐに一流か二流企業に就職して、大きな挫折を味わうことなく順風満帆の人生を送っているひとは、「社会の規定」から外れているひとが不安と焦燥に駆られているだけだと思っているのかもしれないが、実はそうではなくストレスから離れて気楽に生きていることを、羨望やあこがれの眼差しで見るべきではないのか。ヨガ組の悪いクセは、ほんとうに思っていることを一切口にせず、とおりいっぺんの理解や同情を言ってみることだ。バカにしているならはっきりそういえばいいし、「ああいうふうになりたくない」ならそういえばいいのに。彼らの正義はジャーナリズムのそれと変わらない。だから悪は否定や無理解の対象にするだけで、ほんとうはなにもわかっていない。わかっていないことを偽装したり粉飾するために、彼らは突然高みからものをいうときもある。もっとへらへら笑うとか、めそめそ泣くとか、爆発的に怒るとか、シモネタで笑わせるとかしてみたらどうか。どこに平等心があるのか。

翌。臓器移植のことで吉本翁の文献調べ。とりあえず『世界認識の臨界へ』(深夜叢書社)に「成熟と死と生き延びるもの」という章があり、一部読み直し。「人間という概念を変えなきゃいけないということがほんとは問われている」。

…なるほど、そうすると昨日書いた自分の文章はそれほど外れていないだろう。ほんとうは「自殺者は強気だ」と言ってみたいだけだったが。他人の死や痛みには無関心なクセに、自分や自分の身内のことだけは切実になってしまう、人間はそういうところがある。どれほど宗教の訓練を重ねて「他人の痛みを知る」とか「他者の苦しみを自己の苦しみに」とくり返してみても、そこに限界があることを絶望してないなら、アホだら経を唱えているのと変わらない。わんでいぐるなん、ちゃらならビンボー。せいぜいひれ伏せ、ゾウの頭に。エテ公の神に。ちっとも信じてなんかいないクセに。『ビッグイシュー』でも買ったらどうだ。しっかり勉強したらどうだ。理解できないなりに経典を読んだらどうだ。ウソばっかりこきやがって。

午前中、『赤ひげ』後半鑑賞。ずいぶん落涙。赤ひげが心を病んだ少女に匙ですくった薬を飲ませようとして、そのたびにはたき落とされ、それでも「うむ」とか「ほお」とか言いつつ何度も投薬をくり返すシーンは、映画史に残る名場面だと思う。私たちは根気がないから、すぐに子ども(や部下)を叱りつけることを有効な「指導法」だと見なしているのかもしれないが、反発や鬱屈を先送りしているだけだと思えるだろうか。子どもは創造性の発現に恐怖を結びつけるようになるかもしれない。規則や親の言いつけを遵守することが、もっとも楽な生き方だとおぼえて、ダメになっていくのかもしれない。

午後。曇天から小雨。中野の『おもちゃ美術館』へ向かったが、中野からバスで移動したところ、そこはおもちゃショップになっていて『おもちゃ美術館』は4月に四谷に移転したのだと。…そうか、事前の下調べがあまかったな、情報が古すぎたのだ、しかしこういうときこそ本領が試されるのだ、人生は計画通りに進むものではないし、無理に計画を進めるものでもない、けれど四谷なら今からでも行ける、れっつらごー。
ブロードウェイ散策しつつ、自分用の草履とわんたろうの水着購入。快速で四谷まで、丸ノ内線に乗り換えて四谷三丁目の『おもちゃ美術館』に到着したときは、わんたろうは愚図りかけていたし、嫁はダッコで疲れていたし、とうちゃんは中毒症状が出ていた。

四谷第四小学校の廃校跡が美術館になっている。こういう土地はけっこうあるはずだし、それをどういうふうに再利用するかを考えるのは、私たちおとなの役割かもしれない。駅前にパチンコ屋が居並ぶことをだれもが望んでいるのではないように、廃校の敷地に集合住宅ができることをだれもが望んでいるはずがない。私はやはり、どうしても六本木ヒルズあたりを見てみたい。今さら都心部を田園風景に戻すことを考えるより、もっとちがう方法を見出すことが未来性なのだろう。

垂直にのびていく自然風景というのは、どういうふうにイメージしたらいいのか。ガウディならなにをつくるか。磯崎新氏ならどう利用するだろうか。高床式倉庫みたいなものや、樹上家屋みたいなものを林立させて、平地が水田になっているような、人工的な超自然をつくれないものか。新しい寺社みたいな超空間を創造できないか。

ヘタな鉄砲の無駄撃ちでもいいから、そういう創造性のある瞑想をしよう。神仏のイメージを刷り込んでどうなるのか。天皇皇后両陛下の御影を拝んでいたのはいつのことだったか。昭和40年代には幼稚園にそれがあった。今、どこかのヨガも同じだ。なんだかわからねえ、なしくずしのシステムをずいぶんあがめむのんだったな。たいようバンザイ、あぽろん、あぽろん。



(ところでべんぱつのだれかは今も「日清戦争」のつもりなのか? 今度はなんにかぶれたのか? インコのエサでも喰って稗だのアレだの乞食ぶったら大いに安まろう。)

オレは正直に読者に銭を乞う。おもしろかったら10円くれ。
posted by redsnake at 23:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/122558068

この記事へのトラックバック