6/20(土)。前夜。つげ漫画読みつつ独り寝。ボンヤリしている時間がいい。
翌。嫁の出勤は見届けず。おこわ、納豆、こんぶ、梅干し、イシイのミートボール。わんたろうが『マダガスカル』見ているあいだ、別のテレビで『タモリ倶楽部』録画見。阿佐ヶ谷神明宮の「曳き家」話。娯楽的民俗学。
さりげなく体操へ。
わんたろうはカンネンしたわけでもないだろうが、体操への嫌気はややおさまっている。いつものスーパーでカツオの刺身とメロンとアイスクリーム買って帰路。午後は「交通公園」。児童館とは運動量が比較にならない。わんたろうは幼稚園児や小学生に平気で紛れ込んでしまう。赤い「フェアレディZ」が大好きで、自転車は苦手なままだ。
父は時々そうなるように児童に侮られ、遊び相手にされたが、それは実にラッキーなことである。
16時。わんたろうに疲労が見えたあたりで休憩に誘い、公園から脱出。成田東方面へ迂回して南阿佐ヶ谷から帰路。なぜか、空が広く見える。視界良好。近隣に高いビルがなくて、路地が広ければそういうことになるのは当たり前だが、杉並あたりで空が広く見える路地というのはめったにないのだ。わんたろうは空を見上げて、「ひこーきみえゆ、くもうごいてゆ」と言っていた。わんたろうよ、いつかきっと夕焼けと虹と星空をとりもどそう。
ほどなく、わんたろうはこっくりして車上入眠。父は帰宅後にマルメラードフの葬儀話きれぎれ読み、発泡酒でだらけ。思えば亡父の葬儀もこのようなものであったか。
「お別れはすぐに済んでしまった。いつものようななにげない朝は、知らん顔してボクを起こした」(RCサクセション「ヒッピーに捧ぐ」)。
葬式に酒を飲みに来るだけのヤツもいれば、つき合い上やむなく来るだけのヤツもいる。儀礼を学ぶために来るヤツもいる。後日もっと大物の「本番」でしくじらないために。マルメラードフの女房が勝手にやりたければやるだろうが、死人にとってはそんなことどうでもいいのだ。葬儀の指示出すようなことになんの意味もない。
思えば父は、兄弟の多い母方の親戚の集いで、Kオジとよく酒を酌みかわしていた。小学校の用務員だったKオジは職業差別の対象になっていたし、他の親戚は並んで坐ることすら拒んでいたかもしれない。けれど、父はそういうKオジと酒杯をやったりとったりしていて楽しそうだったし、私はそういう父の姿を見るのが好きだった。幼児期の私にとって、Kオジは野卑でけっして親しみやすい存在ではなかったが、他のオジオバのように「おとなぶった」気配もなかった。
私の父はそういうことを機敏に感じていたのかもしれないし、ほんとうのところはよくわからないままだが、適度に酔うとなかなかいい感じであり、またシラフのときでも酔うた感じをうまく出しているときがあり、晩年は幼児の相手をするのがうまかったらしい。私はそういう父に、今もかなわない気がする。
思えば、ドストにしろ吉本三部作にしろ清志郎にしろ北野武にしろ、私は20〜30年前をさかのぼろうとしている。
「危険はつきものだしさ、人生なんていいんだよ、別に(笑)。どうなったって(笑)。またやり直しゃいんだ。」
(ロッキング・オン特別号、「忌野清志郎 1951-2009」62頁)
…ひとたび転落してみれば維持することのバカらしさくらいはわかる。元にもどろうともがいても、どうせ元にもどれないからそうなったのだとか、自業自得だとか思えるなら、はじめて「あきらめ」の意味くらいは実感するだろう。ズンドコでもどん底でも経験すれば、流浪の身であることに頼りなさをおぼえるだろうが、今までしがみついてきた会社やら友人関係やらにさほどの価値がないことだけは知るだろうし、それが苦いか辛いかなどはどうでもいいんだ。私たちは「超人生」の領域に入ったと思えるのか、ただオレは落魄した、他のヤツらはうまくやっているのに、悔しくてしょうがないと思っているのかで、天国と地獄の差があるはずだ。
6/21(日)、夏至。死体も腐る。長寿という幻想。
前夜。カツオの刺身はだれも喰わず。酒肴と化して自腹へ。嫁が購入した『Oh! RADIO』と『シングル・マン』聴きつつ。「君は空を飛ぶのが大好きだった」(「うわの空」)。空を飛ぶ練習はやっているか。
翌。『愛と非暴力』読。六波羅蜜の努力(精進)。
「「なんと自分は無力な、役立たずの人間だろう」と思うのは、人生の失敗のもとです。「自分にはこれができる」と強い心をもつことが大切です。ただし、これに慢心などの煩悩がまざり合っていてはいけません。」
「何をするにも、長期にわたるほどほどの(中庸の)努力が必要です。最初から多くのことを成しとげようして極端な努力をすると、たちまちのうちにすべてを放棄することになります。」214頁
…ひたすらなる身体の訓練がやがてどこへ行き着くのかを見極めようとすると、たいてい慢心や偏見や激しい思いこみにぶつかる。そこから先に慈悲や智慧が見えてくるような気がしない。「中庸」とはどこにあるのか。怠け癖のあるヤツがそれをくり返したり、少しも技量が向上しない言い訳のためにつかうのならやめたほうがいい。たとえばヨガ哲学に自分を馴致させようとしたいなら、とことんまでやればいい。いつまでも片手間でできるなりわいなどない。趣味なら趣味としてやればいい。
『サンデー・ジャポン』は「脳死は人の死か?」のような話題で、これには「臓器移植」問題がからんでいる。延命技術が進歩したことは確かだが、「平均寿命70ウン才」というのは、ほんとうの幸福とどの程度かかわっているのか。成熟するために必要な時間はどれくらいなのか。それは死の側(彼岸)から時間をさかのぼることにあるのではないか。
DVD『赤ひげ』途中まで見て、神田へ。外は雨。
「老病死」を間近に見て愚蒙から解放されるだれかもいれば、ひたすら「美と若さと健康」を追求して勘違いしたままのだれかもいる。「変身願望」が内か外かの違いがあるだけで、どいつもこいつも私もあなたも「勘違いしたバカヤロー」だと、罵っておくか。私たちは死に際で智慧に近づくのか、ひたすらオロオロするのか。生きているうちにオロオロすればいいのに。そういうことを隠さなければいいのに。「また一歩成長しました」とだけ言いたいのだろう。…べべん、べん、べん、
たけきものもー、ついにはー、「ホルモンとビール」。
べべん、べん、べん、(ooh, my soul style, I love U.)べべん、べん、べん、
死ぬのが怖いとか、ジジババになりたくないとか、ただそれだけならそれだけだと表明するか。埋葬されても土から這い出るつもりだとか、オレはgunで死にたいとか、野垂れ死にしたいとか、ディズニー・ランドに行ってから死にたいとか、ソープランドに行くとか、ソープランドで働いてみたいとか、死ぬ前に一度でいいから粉飾の気配を一切なくしてほんとうの気持ちを表明したいとか、そういうことはあるだろう。
一度自分を葬るように、「実は私はこれこれこういうタイプの変態です」と、あなたが告白してください。らいなうっ。
2009年06月28日
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