2009年06月23日

ゲンカク。09.6.16。

6/16(火)。前夜。晩酌しながら夜話。人殺しと娼婦が主人公の物語もあるが、教育者がそれを推奨するのかどうかはわからない。「昔からあるものは確かなものだ」、それは確かにそうだが、たとえば子供に名作絵本を読み聞かせることは教育として最適で、ウルトラマンや仮面ライダーを見せることは価値がないというなら、子供はそういう教えにいつか反発するだろう。同時代の新しいものに目を向けることは大切だ。それが面白いのかつまらないのかを、大人が判断できればさいわいだ。けれどだれもが時代に絡め取られているのだから、テレビは親の懐古という情緒を狙い打ちしているだけで、親はまんまと引っかかっているだけかもしれない。ウルトラマンの限界はそのあたりにある。

啄木寝読。

思ふてふこと言はぬ人の
おくり来し
忘れな草のいちじろかりし

…むずかしいが、口下手と沈黙の歌だろうか。

「忘れな草」が喩であり「いちじろかりし」は「著しい」の意味合いなのかどうか不明だが、思ったことを口にしない誰かが「奥ゆかしい」からそうなのか、「恨みがましい」からそうなのかも、なんともわからないが後者のように感じる。はっきり無視を決めこんでいるとも思えるし、「オレのことは忘れてくれ」とか、「おまえとは絶交だ」と伝えているようにも思える。

松の風夜昼(よひる)ひびきぬ
人訪はぬ山の祠(ほこら)の
石馬の耳に

「山の祠の石馬」も沈黙や無音の象徴だ。そしてこの歌は夜の恐怖をはらんでいる。言語表現の究極の到達点とは、石のように無感情であるごとく見える何かの内奥に、言語以上の情感があるように感じとってみたり、そういうふうに見せかけたりすることにあるのかもしれない。

翌。『愛と非暴力』少読。

「私たちはこの三者(友、敵、友でも敵でもない中立の存在)に対して、三つの異なる心がまえをもっています。すなわち、貪り(貪)、怒り(瞋)、そして相手を無視してかかる無関心です。この三つの心がまえが生きている間は、利他的な心がまえ(菩提心)をもつことは不可能です。まず、貪り、怒り、無関心の三つを中和するのです。
そのためには、転生について考えをめぐらすと効果的です。」207頁

…思えばずいぶん無視されたり、排除されたこともあるが、どこかは自業自得で、どこかは今も奇っ怪な経験でしかないと思っている。後者は、ヨガや仏教組に関してだ。彼らは物も言わずに私を切り捨てた。一方、オウムの信者さんは親切であり、無言のまま関係を断ち切るということはなかった。
そして実際の人生では、「無視する」というより、「適度に距離をおく」ほうが有効だったり無難である場合が多い。「転生について考えをめぐらす」ことは、関係性が濃厚であるか淡白であるかを妄想させる機会になるときもある。

沈黙の内側にあるのが相互理解への切望であるならいいが、冷淡さや誤解や憎悪だったり、空虚であるならば、はっきり恨み言のひとつも表明するか、忘れな草でもおくればいい。

朝。イサキとシャケの残り、手羽先と高野豆腐等の煮物、麦ライス。わんたろうは軽食。昼も同じ。

体操クラブへ。
「たいそういかない、ばすのって、どんにっさんいく」

…「どんにっさん」とは、吉祥寺の「0123」のことらしい。けれど、ここは妥協するのでなく、少しだけ粘ってみたいところだと思って、「わんたろう、体操はそれほどイヤなことではないだろう、お友だちとピョンピョンしたり、ゴロゴロしたりして遊んでいるだけだよね、楽しいよね、先生も優しいよね、どう?」、「うん、せんせいやさし」。少し乗り気になってきた。

体操中、吉本翁の難解本読。
「嗜眠状態のもうろうとした意識のなかでたどる幻覚の過程」(角川文庫『共同幻想論』87頁)。

…あえてひろえばこういうところだが、とにかくむずかしい。私が感じたのはごくつまらないことで、『遠野物語拾遺』の「離魂譚」とは、幻覚剤を用いたときの精神状態と、高度な瞑想の状態とほとんど同じように思える、ということくらいだ。

石川県で空からおたまじゃくしが降ってきたという事件の見解として、だれかが「あれはUFOのしわざだ」と真顔で解説していたが、あの人は過去にでも「UFOに乗って地球を見下ろした」という幻覚の経過を明瞭におぼえているからそういうことをいうのか、ただそういう気がするからそういっているのかはわからないが、「離魂譚」に近づけることはできそうにない。そして私たちはあの人を笑えるのだろうか。

「入眠幻覚」とか「異界」への恐怖とか、松の風が夜にひびいている様子を実際に感じるとか、そういういわば「闇黒体験」や「超体験」を拒みつづけているだけではないか。だからせめて早朝練習は電気や空調を消したほうがいいと、何度も伝えたつもりだが、それすらかなわなかった。

「幻覚」は悪と見なされているのか、どこか遠くに押しやったつもりなのだろうが、それならばいつか予測もつかない事態においてパニックに襲われるだけだ。

暗闇こそを探求すればいい。恐怖や不安に向き合おうとしないなら、「知覚の扉」は開かない。アカルサハ、ホロビノスガタデアロウカ(太宰治『右大臣実朝』)。

午後。とうちゃんの体操クラブへ。
posted by redsnake at 21:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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