2009年06月23日

ライバルは「うなりやべべん」。09.6.15。

6/15(月)。前夜。わんたろうは日付が変わっても寝付かない。「ねるない、あそぶもん」。
個人差があるからなんともいえないが、今の時期のわんたろうにかぎって言うなら、あまり教育的なことを強制されたくないのだと思う。教わるたびに反動が出ている。「教育に遊びをからませる」のではなく(ベネッセはこういうやり方だ)、遊びながらさらに遊びを工夫していくとか、どこまでも遊びの要素だけを追求していくとか、とことん遊ぶことで「ついでに」なにかをおぼえたり刺激を感じとれば、それで十分なんだと思えてならない。

あそびをせんとやうまれけむ
たわぶれせんとやうまれけん
(『梁塵秘抄』)

おとなも同じだ。労働の中に趣味や遊びの要素がほんの少しでもなければ、ただ鬱屈するだけで、就労時間外に遊びを見出そうとする。それはある程度やむをえないだろうが、あまりに遊びや創造性を欠いた仕事なら、いつでも「退職」や「転職」を視野に置いておくといい。深刻になりすぎると精神が病んでいくし、時間外の和合で遊興するだけなら、人間として生きているといえるのかどうか、少なくとも自分に問うてみるといい。

たとえば、『釣りバカ日誌』はどうして人気があるのかといえば、主人公のハマちゃんが職場ではヘマばかりするのに、「釣り師」としての腕前は一級品で、それゆえ立場を逆転させて実は会社の役員であるスーさんと密に交情しているからだ。ありそうでなさそうな設定だが、それほど無理がないから、ロングシリーズになっているのだろう。

けれどこの例は、無芸で不器用なだれかにとっては参考にならない。私はまた、昨日見た工藤夕貴の農業話を想い出した。彼女は「農業って、朝早く起きて大変ですよね」とリポーターに問われたとき、「それは ‘農家’でしょう」と即答した。視聴者は瞬時に意味がわからなかったのではないか。彼女は続けた。

「出荷しなければいけないから、‘農家’の人たちは朝早くから作業するのであって、私は別にそういうことをしていないので、いつでも気が向いたときに作業しているだけです」

…だから別に苦労でもなんでもない、という意味合いのことを話していた。見事だと思った。「やるときはやるけど、やらないときはやらない」というのは私の勝手な言い方だが、「好きなことならとことんやればいいし、嫌いなことならやめてしまうことを考えるのは大事だ」ということも言い続けている。

好きなことを持続する中でも「忍耐」の機会は必ずあるし、けっして甘い道行きではない。けれど、嫌いなことを続けるのはほとんど無意味な「ヤセ我慢」でしかないだろうし、ヘタをすると身心を蝕んでいくだけだ。選択肢が他にない場合はやむを得ないとしても、どうにでもなるならどうにかするべく想像力を働かせればいい。勇断できないのなら、少し休んで旅に出るのもいい。ほとんどの日本人には、そういう「特典」があるはずだ。

今生は一度きりだ。
好きでもないことに時間を費やすのは、人生を金で換算しているだけで、それ以上ではない。金が大好きならとことんやればいい、としか言い様がない。けれど私は、「二足のわらじ」というのはできるだけ短期間にとどめたほうがいいと思っている。「かつかつでも食えそうだ」と思えるようになったら、収入目的の仕事より、好きなことに専念したほうがいい。


翌。「すべての衆生が母」(よくある仏教的な言い方)というよりも、「母性を回復する」のが現在最大のテーマではないか。

だから「カルマがどうのこうの」と説法する前に、東に子育ての苦手な母親がいれば行って子供と遊んでやり、西に疲れた母親がいれば子供をオンブして母にはマッサージをほどこしてやり、南に「もう死にたい」という母親がいれば「オジチャンもいっしょに死ぬ」といって幻覚剤を共に飲んだり、北に離婚訴訟で悩んでいる母親がいれば裏街道の渡世人を雇って性悪な父親を脅迫する。…そういうことができるなら大したもんだ。

そこまでできないなら、せめて児童館や幼稚園に行って「踊り念仏」で盛り上げたり、木魚を叩きながらジミ・ヘンドリックスの『ヴードゥー・チャイル』をうたったり、琵琶をべべんとかき鳴らしながら「諸行無常のひびきー!」と激烈に叫んでみるのはどうか。

うなりやべべんや神田山陽のうたい(歌唱)より面白い説法のできる宗教家やヨガの指導者はいるのか、いないのか。…オレは見たことねぇな。ちっとも「開明的」じゃないな。ただがんじがらめにしておいて、インコのエサを与えるだけだ。カゴメかごめ。後ろのションベンたれ。

朝。イサキの塩焼きで麦ライス。大根と油揚げのみそ汁。美味。

昼前。家族で外出。下井草行きバスは初乗り。西武新宿線で越境。わんたろうは東村山までどうにかもちこたえて、北山公園「菖蒲まつり」へ。路傍に畑が広がる。ナス、トマト、カボチャ、なんらかの芋、栗(あるいは梅か、判別不能)。

私はどこかにアジア的な「共有地」(吉本翁)のヒントを求めている。
あるいはアフリカ的要素を。たとえば「アフリカを援助する」のではなく、「アフリカに授業料を払う」という発想の転換があればいい。家族のありようとは何か? 母性の回復はいかにして可能か? そういうことを彼らや、東南アジアの人民に教わる姿勢があれば、単なる「経済支援」にとどまることはないはずだ。かたや有形、かたや無形の「財産」を相互交換しているにすぎない。だから裕福だけど人心が荒んでいる国があれば、経済的には貧しいけれど心はゆたかでありそうな国から大いに学ぶ謙虚さをもてばいい。

アフリカは容易に行けないだろうが、東南アジアなら旅行者は多いだろうから、たとえば値段交渉で「いっちょうまえの旅行者気分」を味わいたいのならそれはそれでやればいいが、100円の物を千円だと言われて何度も交渉した挙げ句に100円に値下げしたところで満足するのではなく、900円のおつりをもらったときに、「やりとりがとてもおもしろかったよ、これはチップだからあげる」といえばいい。そうすると、「あのじゃぱにはただものではない」と思われるかもしれないし、「一本取られたか」と思われるかもしれない。いずれにしても、そんなことはどうでもいい、という感じで。たとえばバリ島で美青年を買うとしたら、1回のデートが5千円だとしても、デートが終わったあとに、『大正テレビ寄席』のように、「これはおまけだ」といってホンダのバイクをプレゼントするとか、そういう豪胆ぶりを発揮すればいい。そのかわり、日本では得難いエクスタシーやひとときの熱情をメモライズできたら、おおむね「等価交換」だろう。欲求不満を恥じるのはいいが、隠そうとしながらせこくなるな。ひそかに羞じらって、ひそかに性の愉楽を売り買いすればいいだけだ。いちいち細かい交渉するから侮られるんだ。人間の尊厳をたもちながら、買う側もひたすら相手のことを慰撫すればいいだけだ。金は「等価交換」の手段であり、ひとたびの劣情は熱烈な愛撫によって慈悲と化すこともある。こういう情動がよくわからないから、識者は春を売り買いすることをただ「善悪の問題」に地ならしして、そこに家族愛や性愛の情動がからんでいる要素を見過ごしてしまう。どんなにこすっからい娼婦でも、ほんとうは愛を求めているのに。識者の侮蔑的見解になんら同意したり、涙を流すほど感情を揺さぶれたこともないのに。

話がそれた。

北山公園にはカワセミがいた。ちなみにカワセミは「蝉」じゃない。カワセミだよ、カワセミ。ほんとうにカワセミがいたんだ。

わんたろうは菖蒲の花にはまったく興味を示さず、ひとたび不機嫌になりかけたが、水路でザリガニ釣りを楽しむ小学1年生ふたりに溶け込んで、激烈なる遊びモードに突入していた。森林からうぐいすの鳴き声が聞こえていた。

私はわんたろうを嫁に任せて、クローバーの絨毯の上にゴザを敷いて「野垂れ死に」の練習をしながら、ラスコーリニコフの下巻読。(なぜ、ラザロの復活か?)
背後のご老人は「透析が」どうのこうのと、病気の話ばかりしている。

帰路。志村けんの写真や経歴が紹介されたテントがあって、それを見た初老のご婦人三人が噂話をしている。

「あのひと、あれだよね、女と噂あったよね」
「あったあった、確かイシノヨウコの妹だよ」
「そうそう、イシノヨウコの妹、…なんてったっけね、イシノマキだったかね」
「…うーん、とにかく、イシノヨウコの妹だったね」

…あのね、「イシノヨウコの妹」じゃなくて、石野陽子だよ、本人だよ。それをいうなら「石野真子の妹」だろう。だいたい「イシノマキ」ってなんだ? 宮城県の「石巻」と混同してるんじゃないか? …と言いかけたがやめた。おばさんたちは事実の正確さなどに興味はない。

一方、別のジジババはこんな会話をしていた。

「志村けんって、昔流行ったよね、♪ 東村山ー、にわさきゃ、タバコー」
「おまえそれちがうよ、♪ にわさきゃー、タマゴー、だろ」

…まあ、庭先でタバコを吸うクソジジイもいれば、裏庭で卵を生むニワトリもいるだろう。

かくのごとく、東村山はよいところであり、「農業体験農園」なんちゅうものも点在していることが判明した。私は書く方がどうにもならないときは、おもしろがって農業をやるつもりだ。


夕方荻窪着。
すしでも喰うか? と聞くと、いつも嫁はちゅうちょするが、結局行くんじゃねぇか。
左にヤクザもん、右に食い道楽の太った中年夫婦が来て、それとなく「人間観察」していたら、「ウニ、イクラ、ホッキ、タラバガニ、カニ汁」などと傍若無人に注文していた食い道楽の女房が突然ダンナにこそこそ耳打ちしているのが聞こえた。「あれ、きのうのヤクザもんだよ、これ喰ったら帰ろう」だと。

私は心の中で思った。「ヤクザもんの勝ち」と。


宵。プリントして公開後の文書読み直し。
「他の追随を許さないほど圧倒的におもしろいブログじゃないか、だれが書いているんだ、…あ、オレか」とまで思ったが、それにしては読者が少ないのではないか。オレの目に狂いはないはずだ。宣伝が足りないのか。やはりなにかしら営業努力をするべきなのだろうか。

「売れる」ことを念頭におくべきだろう。
posted by redsnake at 00:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/122034010

この記事へのトラックバック