2009年01月28日

色は匂えど「チリ紙はどこにあるや」とつんのめる、若い彼氏はまだ青い、上になったり下になったり、朝の入浴潜望鏡。1.17。

1/17(土)。前夜。壁際で寝返りうって、背中で聞いている。やっぱりオレは出ていくことになるんだな。悪いことばかりじゃないと、想い出かきあつめ、カバンに詰め込もうとしたが、想い出など不要である。(ほぼ沢田研二、というより阿久悠。)
ネットカフェ難民の境遇を味わおうか。朝練はしばらくあきらめるか。戻る気になりゃいつでもできるか。ともかく、なにごとも新しい体験である。アーァ、アーァ、あーあーあ、イヤんなっちゃった、アーァ、おどろいた。

嫁は「寝たふりしてる間に、出て行ってくれ」とまではいわないが、いわないだけだ。妻子を捨てる人もあれば、いずれ妻子に「粗大ゴミ」扱いされる人もいる。よきかなよきかな。嵐の晩が好きさ。(早川義男、表記不正確、『マリアンヌ』、これも不正確。遠藤ミチロウがコピーしていた。)

…嵐が好きだ。
アラシが好きだ、イデも好きだ。ハヤタ隊員にいたっては、数年前に築地あたりの晴海通りで信号待ちしていたとき、偶然右車線に並んだのがご当人であり、車間越しに「スペシウム光線」のかっこうで「シュワッチ」した私に、まったく同じかっこうでひょうきんに応じてくれた。助手席には女優の吉本多香美がいて、微笑んでいた。私はいっぺんに気さくな父娘のファンになった。(これは実話であり、美談のつもり。)

私たちは「ウルトラマンの子」であり、誇り高き「科学特捜隊員・見習い」でもあるはずだ。内輪もめしているヒマなどない。だが、もっと強調したいが、生ぬるい関係を維持する必要もない。議論する気がないのなら、読まないほうがいいと思うときもある。からんできやがれ。たたけ、たたけ、たたけ。

オイラにゃ怪獣の血が騒ぐ。だけど、ブルー。

翌。『ラムリム2』。

「大乗の法に入門したいと望む者は、闇を取り除く太陽と、苦を静める月のような菩提心を、即時に及ぶ努力によっても生じさせるべきである。」(アティーシャ)164頁

…路上で生活する人は太陽と月のありがたみをよく知っているのかもしれない。私たちは空を見る余裕が、どれほどあるだろうか。朝練でいい気になる私はバカだ。自分こそビョーキだとか、異常者だとか思うくらいでちょうどいい按配になるはずだ。

見よ、路傍の地蔵はいつでも野ざらしであるのに、私たちは暑さ寒さで文句をいう。やれ隣の練習生が屁をこいたとか、やれドタバタうるさくジャンプしたとか、やれマットを蹴飛ばしたとか、さんざん不満をいう。いつになったら満足するのか?
(不満内容はおおむね私発。しかし、屁はオッケーとする。屁の恥によって練習に来なくなることは、まさかないだろうが、屁はこくべくしてこくのであり、意外に他者をリラックスさせるのである。by 黴菌男。)

再度、いつになったら満足するのか?
…ムカツク。ご託を抜かす前にしっかり練習しやがれ。「言ったきり」なら幸せになれないぜ。(やや沢田研二)

練習へ。
(愛人と妹のみ。愛人よ、私は奇人変人だから、あなたは苦もなく暖房を適宜つけるがよろし。罪悪など微塵もない。生きることは「おおむねよろしきこと」でありもする。ただ、私は「路上生活予行演習」を兼ねているだけだから。)

スートラ2.38、「禁欲・ブラフマチャリヤ」によって「絶倫になる」、とは書いていないが、「巨大な精力・ヴィーリヤが得られる」のだと。
「禁欲の戒行は精力の蓄積の原因になるから、身心ともに大きな精力をもつようになる。」というのが、佐保田師解説。

「男と女の精力剤、あかひげ薬局は新宿西口から歩いてすぐ」とかいう宣伝録音が西口ガード下で流れていたが、今はどうなっているのか。けれど、真の「男と女の精力剤」とは、「禁欲」である、とスートラいへり。

同胞よ、いちいちムラムラしてはいけないよ。肉棒や肉マンの悦楽に溺れてばかりでは、とうてい「あのくたらさんみゃくさんぼだい」に到ることはできないよ。ソープに行く前にユンケル黄帝液を服用したり、電動こけしを常用してはいけないよ。

(心に)耳のある者は聞きなさい。

boy meats girl, 1、
…「ロマンスの神様」はときには願いを叶えるだろう。よくある仏典に僧言うことが書いてあった。経読む人がくんずほぐれつ淫行に励むことがあるだろうか。今生において、来生において。おおむね、いいえ!(ほぼ、広瀬香美)

boy meats girl, 2、
…恋する瞬間は性欲にまみれてあへあへで、1年たったらハネムーン。3年たったら離婚。ロマンスの神様、どうもありがとう。勉強になりました。ところで、慰謝料の神様を紹介してください。(なんちゅうことをミック・ジャガーがいうたかどうか。ロッド・スチュアートはどうか。「金髪の名人」小朝はどうか。)

(心に)耳のある者は聞きなさい。

「元プレイメイトの平均寿命は50才前後」だとかいう記事が、いつだかの産経新聞に載っていた。かつての吉原の遊女たちも短命だったろうか。
「よいではないか、よいではないか、別に減るもんでもなかろう」というお代官様やスケベジジイが、そこらにいるだろう。「減るんだよ、命が」と答えるがよろし。

(心に)耳のある今生の女よ、聞いておくんなまし。

しかし、「よいではないか、よいではないか、」という相手が妻夫木聡であるとか、オダギリジョーだったとしたらどうなのか。福山雅治とか佐分利信とか、木村拓哉とか市川雷蔵とか、キアヌ・リーヴスとかロバート・レッドフォートとか、ブラッド・ピットとかジョン・ウエインだったらどうか?
浅野忠信や高倉健はどうか? 地井武雄はどうだ?(両刀使いゆえに、個人的には地井さんが私のタイプだ。毒蝮三太夫も好きだ。)

ムラムラしてしまうのではないか? ええ、そこんとこどうなんだい?

さて。説得力をもたせるために引用でもしよう。

●引用1

もしも正しいねがひに燃えて
じぶんとひとと万象といつしょに
至上福祉にいたらうとする
それをある宗教情操とするならば
その願ひから砕けまたは疲れ
じぶんとそれからたつたもひとつのたましひと
完全そして永久にどこまでもいつしょに行かうとする
この変態を恋愛といふ
そしてどこまでもその方向では
決して求め得られないその恋愛の本質的な部分を
むりにもごまかし求め得ようとする
その傾向を性慾といふ

(中略)

この命題は可逆的にもまた正しく
わたくしにはあんまり恐ろしいことだ
けれどもいくら恐ろしいといつても
それがほんたうならしかたない

…「宮沢賢治詩集より、小岩井農場 パート9」(新潮文庫)

賢治さんはさすがに考えぬいているというか、とことん思い詰めている。宗教的な戒律と自己の内面で葛藤している。「自分と他人と万象といっしょに至上福祉にいたる」というのは、実は高度なエロスである慈悲の理想型ではないのか。下位の段階として、「自分ともうひとつの魂がどこまでも真実や真理を見極めようとして共に歩む」のが恋愛であり、さらに下位にあるのが、真理を求める気持ちを共有するつもりもないのに、だましだまし合意しあっている男女におけるのが「性欲」だという。
けれどもそれは恐ろしいし、本当なら仕方がないのだと。

賢治さんはいつもそういう感じであろうか。
つまり、性欲を否定することが「本当なら仕方がない」ことであり、さらに高度である「恋愛」もまた、否定の対象とせざるをえない要素を孕んでいるがゆえに「本当なら仕方がない」ことであり、究極的には「宗教情操」を最上のものとしている、かのように読める。

でも、たぶんそういうことを真意としていたのではないと、私は思う。だから、「あんまり恐ろしい」と、とりあえず表出しておいたのだ。

有名な『アメニモマケズ』はまさにそうで、おおむね勘違いされていると思うが、「そういうものに私はなりたい」と結ばれているように、あくまでもそれらは願望であって、賢治さんはむしろ「修羅」であることを言い尽くしているはずだ。なにを、ほんとうは伝えようとしていたのか。

「修羅」の性根は、「ムラムラ」派であろうか。
私は思うが、宗教と文学的課題の狭間で葛藤しながらも、文学的な創造力や日常における煩悩を否定しきるほど宗教的姿勢を貫くことができなかった(肯定しきることができなかった)のが、賢治さんであり、創造力が既存の宗教的発想をはみ出していたのだ。


●引用2

「下半身をしばる紅い糸」

「戒を守ればロバに生まれ、破れば逆に生まれて、ガンジス河の砂のように無数の、別名によって有難そうにふるまう。/みどり児のときから、すでに縁結びの糸にあやつられて、紅い花を開いたり散らせたりの、青くさい色ごとを、何度くりかえすことだろう。」

…一休宗純、『狂雲集』、柳田聖山訳。(中公クラシックス)

一休さんは権威をカサに着た僧侶をクソミソにけなしていた。そして自分の淫猥さを、「あえて」表明していたのではないか。
偉そうなことをいうだけのだれかの本質が、ヤセ我慢やただの大風呂敷であることを切り裂こうとしたついでに、自分やだれにでもある猥雑さを「風狂」として、淫売婦との交合こそ宇宙との合一のために必須であることを見切っていたのではないか。あるいは慈悲心。
「至上福祉に到ろうとしていた」のではないか。


●引用3

やわはだの熱き血潮にふれもみで さみしからずや道をとくきみ

…与謝野晶子、記憶による。

与謝野晶子は相当な美貌だったのではないか。

私たちはヨガとか仏教に首を突っ込んでみても、まともに「ブラフマチャリヤ」をやり遂げようともしないのだから、別にあえてこのようなことをなぞる必要もないのだろうが、与謝野晶子のような美女が、これをたとえば現代でいうなら、高峰秀子とか、風吹ジュンとか、よその「アキコ」という名の奥さんだとしよう。(たとえもダジャレも今ひとつであり、ちっとも「現代」的ではない。)

きっと、私たちはムラムラするだろう。そしてムラムラしているクセに、…いや拙者は修行中の身であるからして、「ふれもみ」とか「乳もみ」とか、そういうことは禁じているのであり、とかなんとか言い訳しながら、自分の誇りや修行の達成感を守るのかもしれないが、よそのアキコは「せっかく勇気を出して告白したのに、堅物でいけずのボケナスだわ」と思うばかりか、相当のショックを受けるだろう。

「道を説くキミ」は、たいていさみしいし、「もっとうまいこと男女合一を遂げられないかな」なんちゅうことを、内心では切望しているのかもしれない。もっとはっきりいうなら、ただの「甲斐性無し」だろう。わしら同類。


「トメコ、ええのんか? ええのんか?」
「ええわええわぁ、今までいろんな男とやったけど、末吉、アンタが最高だわぁー」

…「妙適清浄の句、是れ菩薩の位なり」といへり。(中公文庫『理趣経』、松長有慶)

なまんだぶ、なまんだぶ。
posted by redsnake at 21:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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