12/27(土)。新月。やる気がない。
前夕。「遊びに来る」という小松の母は、「手みやげはなにがいい?」と聞くので、「いねいね、なにも。オレが死んだら情けを」と答える。「ちなみにこれはアキ・カウリスマキの映画のセリフだ」と伝えると、「ファンだ」と。まったく変わり者だ。個性的だ。けれど強烈な個性とは、おおむね社会からつまはじきにされる。それはナイスだ。ラッキーだ。
私はまた鮨屋のおとうさんが命日だったことを想い出した。
庖丁人にあるのは覚悟でもある。奉仕の覚悟というのか。他人が喰うために殺しただれかに悪業がふりかかって、喰う本人になんらの罪もないのだとしたら、私はそんなインチキ臭いことをして喰うより、自分が殺す側に回るほうがまともだと思う。
(ベジタリアンのインチキと、「サカナ君の超徳」はいつか書くだろう。執念として。自分一人の浄化のために食い物のことをとやかく言うな。という事に関して。)
私たちは正しさや非暴力によって他者を否定するだけなら、その時点でアウトか、ファウルグラウンドに飛び出したゲーム外の修行バカにすぎず、ミミズやオケラやアメンボの命を守ることを放棄したに等しい。
2012年にどうなるのかなんて知らない。けれど、それが2012年でなくてもいいから、いつかそうなるしかないのかもしれないと思う。ヨガをやっている人のほとんどは、魂の自由さや他者との合一を勘違いしているために、死ぬだろう。いっしょに死のう。
産経新聞の一面で、「国家や社会や親が無能なのではない」という意味合いのことを、曽野綾子が書いていた。クソ婆が、またデタラメばかり書いてやがる。飯島愛のかわりにおまえが死ねばいい。根源的な人の哀しみも同時代の鬱屈のニュアンスもわからないクセに、偉そうなことばかり書くのはやめろ。
飯島愛が芸能界を引退したピュアネスを、アンタらは一生かかっても理解できないだろう。
おまえたちの言辞によって、どれほど多くの弱者が追い込まれていくかがわからないのだろう。おまえたちのせいで死んだんだよ。
私は自殺者の代弁がどれほどできるか知らないが、「神の悪フザケ」というのは自殺した漫画家山田花子の作品タイトルだ。私は山田作品が好きだった。
(そして、私は内的にはすでに死んでいる。)
『ラムリム2』。
「一人一人の不幸を多く除きたいという気持ちを持つならば、それぞれにも無限なる功徳が成就することは言うまでもない。」
「役に立とうと考えるだけでも、仏の供養にまさる。ましてすべての衆生の利益のために努力することについては言うまでもない。」119頁
…ただひたすら悔しいと思うときがある。人間どもへの恨みつらみだ。私は精神を病んでいるのだろうが、健康だと言い張るだれかのほとんどが病んでいることにも気づいている。
「なぜ死んだのか?」
「なぜ生きているのか?」
ふたつの問いはいつでも私の中に同等にある。
生きていることは、ただの身過ぎ世過ぎか、それともボサツ的になるきっかけか。
衝動を抑えて寂静に至るような、あらゆる営為から距離を置くほうがいい。
むしろ寝食を忘れるほど打ち込める何かを見出すことだ。
その行き着いた先がヨガだとしたら、それはまあまあの指導者になる条件をクリアしているはずだ。しかし注意深くくり返しておくが、「寝食を忘れるほど」でないときには、せめて羞じらいと遠慮をもって教えることだ。
2009年01月08日
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