12/12(金)。前夜。「カキでも買ってきてくれればいいのに」と嫁。しかし、白菜入り湯ドーフは美味。すべての肉体労働者に滋養を。
(…自白連想:すべての自称ヨギは、たとえばアジアの人民が犬肉を喰う習慣にいちいちかみつくな。その程度のだれでも言えそうなことを、「ジャッジ」していい気になるより、ただ「殺処分」される日本のペットを想え。食べているアジア人と、ただ殺してしまう日本人と、どっちが悪か。すべての人民の食べ物のことで、とやかくいうな。)
「with god on our side」は原曲ボブ・ディランだが、この日聴いていたのはアーロン・ネヴィルの歌唱だ。
「…騎兵隊が突撃し、インディアンは死んだ、わが国はわかくて、神が味方していた(with god on our side)」
犬猫の殺処分は年間何十万頭だったっけ。
自殺者は何万人で、失業者はどれほどか。老人の犯罪は増えているらしい。ソニーの親分たちは末端の従業員を大量解雇する前に、自分たちが退職金を辞退した上で、順次退職したらどうか。もう十分稼いだだろう。
そしてわが国は、神が味方していた(with god on our side)。
斬首。
人の首を切る者が、なぜのうのうとのさばることができるのか。そして彼らには、神が味方していた(with god on our side)。
「エリ エリ レマ サバクタニ!(神よ、神よ、なぜわたくしを見捨てるのか!)」(マタイ27.46)
私たちは自分がどこぞの馬の骨とも知れぬ賤民であることを、むしろ心から誇りに思え。いったいビジネスでサクセスしただれかが、どれほどえらいというのか。
自分はべらぼうな高給をとっているクセに、かつかつの生活しかできない低賃金の労働者を大量解雇するようなヤツらにあるのはどういう未来か。ほんとうにかわいそうなのは、彼らだ。(with god on our side)
翌。『ラムリム2』。
「生老病死などの苦しみそのもの(苦苦)」、「私たちが楽や幸せと思うこと(壊苦)」、「私たち自身の輪廻世界そのものが苦しみの器であること(行苦)」、「この三苦」を通して「苦諦」を繰り返し思惟することはきわめて重要」。85-86頁
…昨夜。「あなたの楽しみってなに?」 と、あらためて嫁が聞くので、
…たとえば家族で団らんすることだ、でもそれは楽しみでもあるけど、翌朝の練習がきつくなるから苦しみの元でもある、ただ私はそういうことで練習を優先してしまうことはダメなんだと思っている、これはかなり明確に思っている、自分の練習のために、家族や周囲のだれかれに緊張や我慢を強いたりするのは、私たち凡人にゆるされることではない、あるいはまた別の楽しみ、それは読み書きすることだ、けれど、これもただ楽というのでもないし、書くだけならともかく、公開文書にするときには激しい苦痛や緊張がともなっている、けれど、私は好きなことを続けることはもっとも重要だということを、つい最近になってほんとうにわかりはじめたような気がしている、たとえば育児もそうだ、これは表面的には苦労だともいえる、けれど、めったにできない体験をしているのだということを、心底思えるようになれば、けっして苦労でもないし、むしろ原始的な母子のありようを探求する機会だと思えば、大量の本を読むことよりもはるかに知恵につながる、無報酬であるというのが苦しみなのかどうかは、今となってはまるであてにならない判断基準だとしか思えない、だから苦と楽はいつでも裏腹で、多くの人はその表側だけを見ることに専念しているから、楽しみを苦しみと見なし、苦しみを楽しみと見なしている、けれど、本質というのは、苦楽を同等に孕んでいるのだ、早朝練習がたいそうな苦労のように感じるのは、ただの錯覚で、「お化けの運動会」だと思えば気色の悪さも増すだろう、でも、「お化けのお祭り」だと思えば、楽しみに変容する、…かくのごとくデタラメである私たちにとってもっとも厄介なことは、おおむね人間関係だ、だから苦手な人がいるとき、うまく避けられないのであれば、「忍耐の師匠」だと思って修行の「おかず」にすることだ、でもほんとうにタチの悪い人が上司や司令者で、ひたすらイヤな想いをするのであれば、どうしてその人がダメなのかを徹底分析してみるといい、なぜその人が嫌いなのかを、書き連ねてみればいい、その文書は「気が済んだ時点」で廃棄してしまえばいい、あるいは、ほんとうに信頼できるだれかに、自分の嫌いな人の悪口をめちゃくちゃに暴露してみればいい、
私はあらゆる宗教が、こういうことを禁止してしまうことを知っているが、禁止や抑制によって解決することは、ほんとうに深いレベルの解決ではないような気がしている、だから私は生来「無宗教」だ、あるいはかっこよくいうなら「超宗教」だ、
とことん苦手だという人間関係を無理して続けるより、「もうこの人はどうしようもない、けれども避けられない、」と確信したなら、みずから環境を変えるしかないのかもしれない、
最終コーナーを回ったら、加速して逃げればいい。最初から逃げていると、ほとんど惨敗するのは「競馬の鉄則」だろうか。「ケツをまくる」には、好機を見定めることが重要だ。
輪廻そのものの苦しみに気づいたフリをしても、それは身の程知らずの早すぎる「逃げ」かもしれない。
練習へ。スートラは2.15。
「明哲の士にとっては、現存在のすべてが苦(ドゥッカ)である。何故かといえば、現象の転変(パリナーマ)と現実の悩み(ターパ)と、それに行(サムスカーラ)、これらすべてが苦であるからであり、…」
…よくあることだが、仏教のテキストである『ラムリム』と合致した。「パリナーマは壊苦」、「ターパは苦苦」、「サムスカーラは行苦」に相当すると思う。
「存在の一切が苦であることを、ほねみに徹して感じた人だけが求道の士となり得る」(佐保田師解説)
…これも、「苦諦」を知ることの重要性を説くラムリムと同様だ。
ところで私たち日本人とは、昔の人や、今の貧窮異国民に比べたら、はるかに「楽」なる要因が多いだけに、苦しみの本質を知る機会から遠ざかっているのかもしれない。少なくとも、壮年者はそうだろうし、一部上場企業に勤めて高給をとっているだれかには、「苦しみとはなにか」がほとんどわからないかもしれない。身勝手な不調や不安ならあるのだろうが。
仕事の中で不平不満を抱えているのなら、やめればいいだけだろうに、給料にしがみついているからそれができない。末端の労働者のように、日々を切り詰めて生活しているわけでもないのに。そんなのは苦しみでもなんでもないよ。意識の持ちようを変えれば済むことだ。
きわめて乱暴にいうなら、年収1千万円の人が3年働けば、年収300万円の人が10年働くのと同じ収入が得られるはずだ。
また、年収1千万円の人たちは、おおむね年収300万以下の人を侮っているのではないか。能力で勝負したことなどないクセに。
また、年収1千万円の人たちは、「オレ様は高給取りだ、いい仕事してるんだ、末端の労働者や肉体労働者なんかとは人種がちがうんだ、だから満員電車ですわるのは当然だ、はひふへほー」、とでも思い上がっているのではないか。
また、年収1千万円の人たちは、「オレ様の給料でいい生活ができるんだ、子育てはおまえがやれ、オレ様は週末は接待で銀座のクラブに行ったりゴルフに行ったりするのだ、子供のしつけはしっかりやり遂げるのが母親の務めだろう、稼ぎもないクセになにを不平をいいやがる、はひふへほー」、なんちゅうことを心の底でほんの少しでも思っているなら、女房子供に謝れ。「慰謝料デポジット」のつもりで、月々の給料全額を女房に渡しておけ。
私たちは幸福や裕福をわが身に満喫しエンジョイしているとき、ミミズやオケラやアメンボがいない都会とはなんだろうとか、自分のエンジョイの裏で、見知らぬだれかが苦しんでいるのかもしれないということを、ほんの少しでもいいから考えるクセをつけたらどうなのか。
しっかり練習しよう。
(練習。鋼鉄姉妹の入り順が変わっただけで、光線まで変わった。盲従することを使命にするのではなく、「慈悲と智慧」の方向にむかうことをすべての人に願うだけだ。神経の繊細な人は、それが心の弱さと紙一重だということに気づいてほしい。「慈悲や智慧」に向かうには勇気が必要だ。「自分でなければできない、私が全責任をかぶる」、そのくらいの気概を、ただの思いこみでいいからもっていてほしい。)
「デクノボー」になりきることは、なんとむずかしいのだろう。
…愛する練習生へ。
着地を静かにするように。
日常のすべての動作を静かにするように。
ひとたび始動したら、できるだけマットから離れないように。
そして慢心しそうになったら、「自分は劣っている」ことを知るための営為に励むように(難解なテキストを読むとか、自分より優れた人の著作に読み耽るとか、酒場で暴れるとか、酒場でジャンプスルーするとか、酒場で頭立しながら歌うとか、酒場で全裸になってガルバピンダアーサナでゴロゴロ転がるとか)。
…これらの実践は、たやすいはずだ。
なぜって、私はほとんどすべてやったことがあるから。「大日本帝国陸軍人」としての魂をもつなら、やるべきだろう。誇りをもて。「黒人」としての誇りをもて。やるときは「ジハード」であり、「クルセーダー」でもある、「コンバット」でもあり、「七人の侍」でもある、「ピグミー」でもあり、「アイヌ」でもあろう、あるいはなんでもいい。…はーうぃ、うぽぽ、はうぇ。(喜納昌吉の名曲、『アイヌ・プリ』。ソウル・フラワー・ユニオンの中川敬がカヴァーしている。「超」のつく名曲だ。)
いい気になってはいけない。自分がいいことをしたと思ったときには、必ず恥じるように。だれかが悪いことをしているときに、それを止められないのなら、自分も同罪だというほど、他者の行為を自分に映しこむように。
帰宅。昆布と卵かけ土鍋めし。午後に「99ショップ」のトムヤムラーメン白菜入りやら。
わんたろうは青っ洟なれど全快に近く、とうちゃんは疲労。「父親失格」であることだけ確認。
夕方。セス読。
「…ごく簡単に申しあげますと、現在のあなたがたには理解できない見方において、悪は存在しないのです。」434頁
「すなわち、悪魔は誇大妄想であると言えるのです。先にも述べましたように、地獄の存在を信じ、信仰を通じてそこに至ることを定めとしている人は、自分の思惑通りに地獄を経験することができます。」
「さて、実際、悪魔やら地獄やらといった信仰を抱く人には、意識の本質に対する、なくてはならない深い信頼が欠如しています。それは魂への信頼であり、「すべてなるもの」に対する信頼でもあります。」435頁。
…「意識の本質に対する、なくてはならない深い信頼」、「魂への信頼」。
今や、私ははっきり「無宗教」だと思う。私には「既存の」宗教への信仰心がない。「ロック魂」があるだけだ。あるいは「与太郎魂」が。私にあるのは、まさに「魂への信頼」だ。
…アイヌ・プリ・チャランケ、はーうぃ、うぽぽ、はうぇ。
2008年12月27日
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