10/27(月)。日の出、5:58。
前夜。「千里の道」への第一歩かどうか。チベット寺子屋から帰宅。ともかく仏教の勉強を続けるつもり。
「どうだった?」と嫁が聞くので、「聞・思・修」の大切さとかそういう内容だったことを説明しながら、いつものようにヨガ批判になる。
…聞いて学ばないから、思考したり分析することができない、だから瞑想することができない、彼らの瞑想とは、ただ無想になることを心がけているだけだろう、私たちは体操するだけでなく、しかるべき師匠について学ぶべきだ、もしそれができないのなら、せめて本を読むべきだ、私はなんどとなくだれとなく、たとえばダライ・ラマ法王や吉本の著作を薦めているが、ついぞ「読んだ」という話を聞いたことがない、それでいて彼らは落ち着き払ったフリをしている、ただアサナの出来映えがうまくなっただけではないのか、確かにアサナの練習だけで怒りや落ち込みなどの精神的不調はある程度改善される、けれどもそれだけであり、それ以上ではない、そこがゴールではない、だからこそ真剣に学ばなければいけないのに、そういう意思が見えない、私は失望感を書きつづるのは本望ではない。
翌。草木も眠る頃に嫁はまた活動。「みーたーなー?」とは、灌頂受けたアミダババア。『ラムリム』読。
「嘘をつくこと(妄語)と二枚舌と悪口とへつらいのことばをやめること」
…これは十不善業のうち「口」に関すること。「へつらい」はふつう「綺語」とされ、無意味なおしゃべりと解釈されることが多いが、ここでは「へつらい」。ところでわしらはへつらいとお愛想ばっかり。
「心の働きが業の形成にとってもっとも影響力をもつと考えねばならない。」345頁
…心で思うことのほうが、実際の行為よりも重いとする。だったら「へつらい」ばかりに終始して、内心では反対に相手を嫌悪しているなら、口と心の両方で悪をなしていることになるのかどうか、私にはわからない。世間はそのようにして渡り歩くものかもしれない。
ゆえに私のように、思ったことをなんでも書いてしまうことがいいことだとはいえない。ただ悪がわかりやすくて、無暗にカムフラージュしないだけだ。
お願いです、一発やらせてください。
出動。曇りから快晴。ヨガ日和。
「顕在化したものも微細なものも三グナから成り立っている」というような意味合いのスートラ4.13反復。
「三グナ」を「貪・瞋・痴」の仏教でいう三毒に対応させたのは尊師麻原だ。「サットヴァ」=「貪」が一見不適応に思えるが、貪欲さを「愛(愛欲)」に置き換えてしまうとわかりやすくなるかもしれない。ただ、かなり独自の解釈だとも思う。
けれども「サットヴァ」を「純質」とか「光」、「明るさ・軽さ」、「徳性の高さ」のように考えてしまうと、ときどき「サットヴァ的であればそれでいいのではないか」と思えることがある。それが落とし穴かもしれない。これを「愛(あくまで人間レベルでの愛)」に置き換えてしまえば、それが必ずしも「純質」でも「徳性の高い」ものでもないことがわかるはずだ。けっして不変のものではなく、無条件のものでもない。サットヴァはいつでもラジャスやタマスに取って代わる。
「こんなに純粋に愛していたのに、アタイ以外の女とまぐわうなんて。悔しい悔しい、(パターン1)北京原人みたいな顔して、(パターン2)金髪のブタ野郎のクセに。こうなったらアタイも遊んでやるわ、…といっても相手がいないわ。うーむ慰謝料をふんだくるべし。」
少なくともサットヴァ的な状態が「悟り」なのではなく、またラジャス的やタマス的なだれかに「悟り」の道が閉ざされているわけでもない(のではないか)。つまり泰葉も正直さゆえに「悟り」のどこかの段階に達するかもしれないし、しないかもしれない。前からわかっていたが、お笑いのセンスが兄弟をはるかに超えていることは確かだ。破壊の資質はあなたが受け継いでいる。伝統より大事ななにかがあるなら、やればいい。
帰宅して気絶。わんたろうに給食して再度気絶。
ジェーン・ロバーツ『セスは語る』(ナチュラルスピリット)、きれぎれ読。
「あなたがたのいう感情に匹敵するものを、わたしたち(セスたち、高次元の生命体:筆者註)も感じます。しかしわたしたちの抱く感情は、あなたがたが愛情であるとか、嫌悪や怒りなどと呼ぶ類のものではありません。あなたがたの感情がどのようなものかをあえて説明するなら、「内なる知覚」と関わる、はるかにすばらしい精神的体験や出来事が三次元的制約のなかで具現化された結果である、というのがもっとも近いのではないかと思います。」66頁
…スートラにつながる。「感情」を「三グナ」、「内なる知覚」を「真我」としてみると理解しやすい。どうやら私たちは「真我」を理解できるレベルに下ろしすぎているのだ。だからわからなくなるのだ。
(また泰葉が記者会見で「取り乱している」ように見えるのだとしたら、あなたは理性派かもしれないが野性派ではない。「三次元的制約」にどちらが縛られているのかというならば、冷静に泰葉を見下すだれかのほうがバカであり、泰葉は面白いと思うだれかは ‘いくぶんか’ 制約から離れている。制約を突き破るには、なんらかのパワーが必要で、それはそんじょそこらの生半可な知性ではない。少なくとも「泰葉はバカだ」と決めつけるような知性ではない。奔放であることはすばらしい。くり返すが、私が三平兄弟のなかでもっとも才能があったのは泰葉だと思っていた。いかんせん過去形だが、泰葉はだれかの女房でとどまる器ではない。)
途中、地井武雄の『ちい散歩』に見入る。この日の散歩コースは北赤羽。地井さんもまた私のアイドルである。
夜。紀伊國屋ホールにて、吉本隆明自宅から生中継『芸術言語論2』聴聞。
10/28(火)。前夜。吉本講演会の興奮冷めず、晩酌少々。寝つき悪し。
明け方に好々爺然とした吉本長老の夢見あり、カメラ小僧のように追いかけ回す。
翌。二度目のアラーム(4:00)を消したあと不覚にも寝込んだ。「あと5分、あと5分」と言い聞かせながら、「そろそろあれだな、4:20頃だな」と思って携帯を見たら5時過ぎていた。油断である。まったくもってレイジーである。
「否。5時ならゼロ嬢が来ているから、今さら慌てる必要もあるめえ」と思ってトイレでしゃがんで『ラムリム』読みかけて、ふとまた思いついた。「あれ? もしかしてゼロ嬢が担当曜日では? こなくそ」。糞便やるかたなく、出動。ゲタ走り。
下足が二人分ありて、「杞憂であったか」と思うがそれは少々見当違いで、塩子嬢とジョーブ博士だった。なぞが深まる。あけたのはだれだ、なぜだ。
定位置外れて左右がボブと塩子、前にあずみ。1時間以上遅刻のため大幅短縮。スートラ4.14反復。
「オブジェクト(ヴァストゥ)の同一性は三グナの転変の単一性に由来する」(各本混合勝手訳)
…なにがなんだかわからないのはどの訳を見ても同じだ。
「三グナの中でその中の一つのグナが主となり、他の二つが従となる関係で三者一体の転変をするのである。」(佐保田師解説)
…あ、なーる。やっぱりわからんが、まちがってもいいから適当に解釈しておこう。つまり、三グナは結構いがみあったり争ったりしながらもそれなりに調和を保って一応単一の状態を保っている、としよう。
まあ、民主党とか自民党とかもそういう傾向があるだろう。でもって、ごちゃごちゃ内紛を抱えながらもなんとなくひとまとまりになっているのがわしら三次元生命体の意識のありようで、それをばウイスキーにたとえるとシングルモルトではなく、ブレンディッドであるというようなことである。
だからたとえば、Aさんが極めて紳士的で善良であり、いかにも純然たるサットヴァらしく見えようともさにあらず。結構怠惰な要素を含んでいたり、ときどきイライラしたりすることもあるのだから、あくまでもサットヴァが主になっているだけで、従としてタマスもラジャスも含んでいる。わしらはだれもがそのように混じり合った性格を帯びていることにおいて、アイデンティティーなるものを維持しているにすぎない。
ゆえに、サットヴァ的であることが真我に必ずしも近いというわけでもない。また劣った要素を隠蔽する必要もない。サットヴァの純粋性とは、それほど確かなものではない。またラジャスがパワーになることもあるし、タマスが他者をリラックスさせる要素にもなる。『ぐーちょこらんたん』(教育テレビ『おかあさんといっしょ』)のズズちゃんを想えば、まさにそうだ。タマスは必ずしも劣った要素ではない。と私は思う。ぐうたらなだれかや、仕事上の成果がいまひとつなだれかが、案外社内のあともすふぃあをソフトに緩和させていることを知りたければ、『釣りバカ日誌』を見ればいい。
私たちはほとんどバカだから、なにかを達成したり一等賞になったり、指名ナンバー1のソープ嬢にあこがれたりするだろう。また一方それに対峙する側は、どこかでネームバリューやブランドを重んじるばかりで商品の価値観を判断したり、指名ナンバー1のソープ嬢を一ヶ月待ちで予約したりするだろう。(しないのか。)はたまたコンドルズのチケットならどうか。
私はマイルス・デイビスのライブに行かなかったことをいまだに後悔しているし、枝雀の高座を見れなかったこともそうだ。
人はどこかだれかにあこがれたいミーハー症候群であるが、アホはアホを見切れないだけだから、たとえば森鴎外と森進一の区別がつかなかったりする。(なアホな。)
「こんばんは、森鴎外です。おふくろさんは解禁されたのでうたいます。」(本日のつけたし。明石家さんまギャグ集、参照。)
帰宅して『ラムリム』読。
「仏道におけるもっとも具体的な実践においては、…身・口・意による活動をよくコントロールすることが主眼となる。」307頁
…私が疥癬病みであることや中気であること、また虚弱体質であることは、悪業による。駄法螺話はまちがいなくアル中のせいだ。さらに心はまっくろだ。ぺいんといっとぶらっくだ(ローリング・ストーンズ)。
実に前途多難である。
茨の道を突き進むためには、やはり水戸街道を経由したほうがいいのだろうか。途中で松戸の焼鳥屋に寄りたいなあ。モコちゃんに会いたいなあ。会津磐梯山を越えて大船観音嬢にも会いたいなあ。…奥の細道。
つきひは吐くほどの酒飲みにして、ゆきかう酒客もげろげろと蛙飛びこむ水死体。
(廃人、松葉くずし、『奥飛騨ボジョレーヌーヴォー』より)
ぐうすかぴーとダウンしていたら、わんたろうがパパパパパパパパー。私は疲れた。給食して児童館へ。空はこんなに青いのに、私の心はブルーノートである。コルトレーンよ、サックスで泣いておくれ。梅母と再会し、子育ての苦労というより、親同士の七面倒くさい関係について多弁。
「拙者に至っては、見た目も芳しくない男親であるから、児童館で居心地が悪いのをこらえるだけで精一杯でござる。」
庭で電車ごっこえんえんやまず。「終点でーす」といって強引にやめたら爆発的に泣き出した。私ははっしとわんたろうを抱きかかえ、逃走するパンツ泥棒のようにひたひた無念無想。
足元にからみつく、赤ん坊を蹴って。まあ、死ぬが酒びたり。狂ったアル中の皮下脂肪忍耐。わんたろうH18(生まれ)。この手の中に、抱かれたものはすべて無教育の、さだめなのさ。(ルパン三世)
夕方。明星の「らーめんでっせ」をすすり泣き喰い。
さらに出動。西友の屋上で沈む赤い夕日を見ながら、「ああ、おまえはなにをしてきたのだ」(中原中也「帰郷」)と想ってみても、今日はきょうとて涙も枯れた。
『理趣経』メモ。
「(一切有情の調伏とは)菩提のため、相手を悟りに向かわせること…」226頁
筆記中疲労。(わしはともかく、あなたがたはお願いだから悟ってね。)
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