10/12(日)。いつもどおり起床するつもりだったが喘息的発作やまず。苦悶しつつ横寝。怠け癖と不健康から離脱できない。暗闇でライオンの群れに遭遇する夢見。
わんたろうと朝寝のあいだ、嫁はレッドクラスへ。夜桜嬢が担当だったらしい。ひじきと鶏肉唐揚げ入り五目釜飯美味。『ラムリム』読。
「(アングリマーラは)多くの人々を殺す残虐な賊であった。釈尊に出会ったとき殺そうとしたが、逆に教化され出家した。」257頁
「釈尊は自分を毒殺しようとしたデーヴァダッタと血の通ったラーフラの両者を少しも差別しなかった。」
「つまり、仏陀の救済の意思は特定の他ではなく不特定の万人に開かれていること、普遍的であることを意味していると理解できる。」258頁
…大量殺人の罪を犯した者ですら救済の対象になるばかりでなく、悟りを得ることすらできる。ミラレパの伝説も同様だ。私たちはこういう挿話をよくよく覚えておいたほうがいい。いつでも世俗の法を破る者を否定したり審判するだけでなく、むしろ救済するにはどうするべきかをあくまでも個人的に考えてみることだ。
三浦和義氏のように真相を語ることなく自殺してしまったり、宅間某のように悔悛することなく死刑執行された者を救うことはむずかしいだろう。人間として生きているうちに救済するすべを、できるだけ多くの人が考えぬく習慣づけをするなら、復讐的な意味合いの濃い刑罰は世界から減るだろう。
私たちがもし、殺人者と愛する家族を同等に思いやることができるようになったなら、そのときはじめて、「ジャッジしてはいけない」と他者に教えることができるはずだ。たとえ今はそこまでできなくとも、そういう方向を常にイメージする人が多くなるならば、憎しみや殺気は消えていくはずだ。
だからなんどもいうが、「なんのためにヨガをやるのか?」ということの次元を少しずつでいいから高めていくといいのに。
単に「非暴力」をお題目のように唱えるのではなく、もっと果敢に「愛しあってるかい?」とか、「敵とはSMの女王である」とか、周りの人に広めたらどうなのか。(後者はともかく。)武器を保持する国家があたりまえだと思われている現状が、数千年後にはどうなっているのかを想像してみるといい。
武器によって家族や国民を守るという発言を威勢良くしている政治家や言論者は、さぞかし勇気凛々の英雄気取りなんだろう。彼らはジョン・レノンやガンジーを殺すだろうか。(殺したいほど敵視しただろう勢力とどうちがうのか?)
武器によって家族を守るという発想が、「自分を毒殺しようとしたデーヴァダッタと血の通ったラーフラの両者を少しも差別しなかった」というブッダのそれと、どれほどかけ離れているだろうか。(私たちは織田信長を崇拝するような政治家にいつまで投票するのか。「私のアイドルはブッダです」というだれかに投票したほうがマシだろう。)
「非暴力・アヒムサ」とは、「完全に反暴力」でなければ大した意味はない。自分たちだけが安全でいることを実現しても、そのとき他のだれかや他の生きものや、花や植物が犠牲になっているのなら意味がないんだ。つまり「超暴力」でなければいけないし、「慈悲心と愛のセールスマン」でなければいけない。
自分や家族を守るために武器で敵を殺傷してどうする? 敵にも家族があるだろう。
本来のヨガの目標ははるか先に見越すとしても、現時点では政治的なことに干渉せざるを得ないはずだ。私たちは政治に無関心なヨガの先生と接しているのかどうか。その先生は超絶的に修行をこなすことによって解脱しているのかどうか。悪に対して寛容なのか、単に無頓着なのか。
罪悪に対する見解を聞くと、その人物の器量がおおむね判明する。
ゲリーの2012年の予測は興味深いだろう。
(『光の十二日』は改訂版が徳間文庫から出ているらしい。)
午後。
ポタラカレッジは灌頂儀式の特別クラス開講中につき休み。私には受ける資格がないと自己診断したから。
行くあてなく、読書はできるだけ結跏趺坐にて、エンリケ・バリオス『ツイン・ソウル』。
…1万数千年前、わたしたちの試みが失敗したとき、それは起こった。神や自然とのつながりが失われた。248頁要約。
「…ということは、もし、わたしたちの世界が愛に満ちた世界へ復興を遂げることができたら、みんなでいっしょに ‘偉大なる跳躍’ を行うことができる。でも、もし、そうでなかったら、すべてはおしまい。
…一万数千年前のときとは違う。…これはわたしたちにとって最後のチャンスなの。再びわたしたちが失敗したら、宇宙はその後生きることを許さないわ。」280頁
…ゲリーの発想に酷似している。
●10.25、追記。
ゲリー・ボーネルらの発想は昭和40年代に流行った「ノストラダムスの大予言」に近いものでもある。ただ、完全なる人類滅亡思想ではない。なにより私がわからないのは、このような発想がいまひとつマスコミで取り上げられないことだ。「ノストラダムスの大予言」ならば、当時は小学生まで知っていた。
だから陰謀が働いているといいたいのではなく、テレビを主体としたマスコミが自在さを欠いて画一的な情報しか流さなくなったのだと思う。要するにメクラだましだ。
たとえばヨガ。
一見流行の兆しを見せているが、マスコミがどれほど本気で取り組んでいるだろうか。私はたぶん、特にテレビ業界は避けているのだと思えてならない。なぜか。
ヨガに本気で取り組む人があまりに増えると、自己治癒能力を追求したり、物質的な欲望(購買意欲)に無関心な人が増えることを恐れているからだと思う。
製薬会社や、消費者金融に取って代わっただけの今どきのパチンコ業界はスポンサーであり、最たるお客様だ。
はてさてさすれば「自己治癒能力」は敵だ。「知足」も敵だ。軍事にほんの少しでも関与する産業なら「非暴力」も敵だ。
私の考える「世界的陰謀」とはその程度のことであり、確か経済学者のガルブレイスがいっていたように、「泥棒っていうのはそもそも発想がせこい」のだと思う。要するに大それた陰謀など実行できない。それは双方で空想しているだけだ。
私たちは人民の購買意欲がなくなると経済活動が減速したり停滞するのだと思い込まされているだけかもしれない。ほんとうはだれかがやたらと搾取に励んでいるのかもしれないのに。麻生太郎の資産はすばらしい。渋谷の豪邸はすばらしい。日本の首相にふさわしい。…と思うかな。
ところで停滞したり右肩下がりになるとどうなるのか。
困るのはだれか?
私たちは裏の畑でポチが泣いたり、正直爺さんが掘ったらばミミズが千匹出てきたり、それでまた畑が豊作になって、イモがとれて爺さんが精力絶倫で婆さんがヒィヒィ喜悦するような、昔のような未来を求めてみたらどうか。…あ、なんかちがう?
2008年10月25日
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