2009年12月17日

ヒッチコック・クレイジー LOVE。09.12.9(水)。

12/9(水)。前夜。「歴史のナンセンスとは、吉本隆明の名が大文字で表記されていないことだ」なんちゅうメモがあったが、まったくもってそのとおりである。少なくとも人民の意識を改革しているのは政治家ではない。

ひとり酒。豚肉生姜焼きとブロッコリーつまみ。賢治さん読。

「私はつまらないと思った、それからチラッと愛を感じた。すべて敵に遭って却ってそれをなつかしむ、これがおれのこの頃の病気だと私はひとりでつぶやいた。そしてわらった。考えてまたわらった。」(ちくま文庫『宮沢賢治全集8』、「初期短編綴等」315頁、表記は一部不正確)

…最近よく「歓喜の状態」にはいる。おおむね寺子屋にいる場合に限るが、ときどき苦手意識のあるどこぞのママゴンに会うときでも、「チラッと愛を感じる」というか、「なつかしむ」感じがある。これが私のこの頃の病気だ。そしてニヤニヤ笑う。はひふへほぅ。

翌。煮込みうどんとシャケ皮めし。わんたろうはチキンナゲットとみかんしか喰わず。ついでに行儀も悪い。ちゃんとすわって喰いなさい。「とうちゃん、うんち」、うんちをしながら喰うのはやめなさい。

11時から体操クラブへ。

思えば1年間よくがんばった。3月からは週2回だったが、途中数回サボっただけで、この頃は無休だ、よくやったぞわんたろう。と、心の中でほめていたが、わんたろうは体操終えて着替え拒否。とうちゃんの保護者不適ぶりを大々的にPRした挙げ句、体操着のままヤクルト。

午後から幼稚園だよ、買い物したら帰ってめしでも喰おう。「とうちゃん、2こかったの?」、あはん? 酒のことか、そうだよ、1本ずつ買ってるとすぐなくなるからね。

神明橋から川沿いにゆっくり移動してカモ見。あれはオナガガモで、茶色いほうがたぶんメスなんだよ、それと空を飛んでいる小さな鳥はハクセキレイというんだよ。
ちょっとずつ図鑑などで学んでいる知識をいちいちわんたろうに伝授する。他につたえるひとがいないからでもあるが、オナガガモがどこかの大陸から移動してくる「冬鳥」で、この季節にしか出会えないのだと思うと、いちいち興奮する。これが私のこの頃の病気だ。

結局めしは喰わず。着替えして寺子屋へ。
わんたろうはまず「シルバニアのドールハウス」がお決まりの遊びで、ときどき抜け出して園長先生とじゃれている。恐竜好きは「ウルトラマン」の影響だろうか。「頭ン中、ウルトラマンばっかりや」と先生おっしゃるが、じつにそのとおりであろうし、ふたおやが手抜きのために「大怪獣バトル」ばかり見せたせいでもある。ちょうしんどうはだぁー、がおーがおー。

奇妙な歓喜は、この日もなんどとなくおとずれた。

敬愛する“祖父母”がいて、子どもたちが安心して自由に遊んだり、なにかに熱中できるからだろう。「うちの子は作務らしいことをなにもしない」といってボヤいてみると、先生は「押しつけたらアカンのです。それをしてしまうと、子どもは必ずイヤになるときが来ます。無理にやらせて子どもがうまくできたときに、親は満足してしまうかもしれませんけど、実はそうではないのです」とおっしゃっていた。道理である。

私はここにいると、「道理である」と思うことが多い。児童館ではそうではなかったし、ごくふつうの幼稚園を選択していれば、そこで何が起きているかをほんとうに知ることはなかっただろう。児童館のほとんどの職員はけっして有能とはいえない。なにより、児童館そのものの存在意義が問われてしかるべきだろう。どこか特定幼稚園の「放課後の場」と化している場合もあり、単独の母子が入ってきたときに、居心地の良さをサポートしてくれる職員など見たことがない。彼らは“イベント”以外では事務室にこもっているだけだ。ひとたび疎外の気分を味わった母子は、二度と寄りつかなくなる。そのくせ、「児童虐待をなくしましょう」みたいなポスターだけはしっかり貼ってある。偽善もいいとこだ。民間企業に委託したほうがはるかに賢明だ。

3時過ぎに解散。わんたろうだけが公園へ。

ねぇ、みんな帰っちゃったよ、せめて別の公園に行こうよ、と提案したが、拒否。しばしふたりで、ココアとニコチン一服。曇り空にオナガが飛来している。なんだか楽しそうだ。

ほどなくして、「おねえちゃんたちきたよ」。でもいっしょに遊ぶには年がはなれすぎている。わんたろうはそれでもねばる。おねえさんたちにじりじり近づいて、なにをしているのか興味津々なのだ。

おねえんさんたちがはじめたのは「かくれんぼ」のようだが、園灯をベースキャンプにした特殊なゲームのようだったので聞いてみると、「ぽっくり」という遊びらしい。「缶蹴り」と趣向は同じだ。ついでに中学1年生だということも判明した。

わんたろうはいっしょに遊ぶわけでもなく、なんとなくつきまとったり観察しているだけだが、それなりに楽しいのか、「別の公園に行こう」という提案にはけっして同意しない。だんだん暗くなってきた。

とつぜん、空がギョギョギョと唸りをあげた。見上げると、鳥の大群が東に西に「∞」形に旋回している。まるで巨大な黒雲がダンスを踊っているようだ。

あれはなんだろう、なんていう鳥だろう?
私はそればかり気になっていたが、そもそも近視がすすんでいて、近くのおねえさんたちの顔すら見えていない。眼鏡を換えるか、バードウォッチング用の双眼鏡を買うか。ともかく、数十羽単位ではない。千羽近い大群だ。

日没頃にようやく家路。鳥の大群の塒はどこにあるのか? 妙正寺公園あたりか? と予測していたら、案外近くから声が聞こえている。

わんたろう、鳥の声が聞こえるよ、あっちのほうだよ、いってみようか、「うん、いってみゅよ」。蓮華寺の裏に竹林があった。あれだあれだ、あそこが鳥たちの塒だ、ほらほら、すごいよすごいよ、すごい鳴き声だよ、

きょきょきょきょきょきょきょきょきょきょきょきょきょきょきょきょきょきょきょきょきょきょきょきょきょきょきょきょきょきょきょきょきょきょきょきょきょきょきょきょきょきょきょきょきょきょきょきょきょきょきょきょきょきょきょきょきょきょきょきょきょきょきょきょきょきょきょきょきょきょきょきょきょきょきょきょきょきょきょきょ

暗闇と化した竹林の中で、鳥たちがおおさわぎしている。姿は見えない。寺は葬儀の最中らしい。「鳥葬」みたいでいいな。

日大二高の交差点でイルカ母子と遭遇したとき、私は興奮状態だったため、あの竹藪に鳥がおってどえらいこっちゃねん、という意味のことを街道越しに大声で伝達していたら、「とうちゃんうるさいよぅー」と、わんたろう。

ごめんなさい。

…って、とうちゃんはちゃんと「ごめんなさい」がいえる、いい子でしょう?

ちゃうちゃう、めったにあやまらないよね。ちぃちゃんにはとくに。(と、わんたろう。)

宵。あの大群はなんだったのか? という疑問やまず、グーグルで「冬鳥、大群」と検索してみたら、「あとり」らしいことがわかったが、千羽単位で移動するという情報は得られず。ちなみに「あとり」とは、

「ヨーロッパおよびアジアの中部で繁殖し、日本には冬鳥として群れをつくって渡来します。山地や平地の林や水田にみられ、おもに草や木のたねをたべ、キョキョキョとなきます。」(小学館『鳥類の図鑑』より)

たぶんこれだ。そして「あとり」はけっこううるさい。「オーケストラ・リハーサル」(フェリーニにそういう映画があっただろう)みたいに個々がめちゃくちゃに囀っている。
上空を旋回するときもどういうあれでそうしているのか、さっぱりわからない。まるで空を撹拌するかのように、ぐるぐる飛びかっている。

私はフランク・ザッパの『黙ってギターを弾いてくれ』を聴きながら、自然はルールを逸脱しているものだなぁと、感慨に耽ってみたのであろうか。それともわんたろうを邪魔にしながら「かきかき」していただけだろうか。

だれもいないと思っていたが、どこかでどこかで天使が見ていた。

「あんた最近フランク・ザッパと鳥の声ばっかり聴いてるね、そしてまずまずリラックスしているね、けど、酒飲みながら書くのはいかがなものかね」。

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フォト:わかりにくいでしょうが、鳥の群れ
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2009年12月16日

ジジイの星屑メモリー。09.12.8(火)。

12/8(火)。前夜。テレビ写真をブログに掲載することは著作権に引っかかるらしく、最近撮ること自体をやめていたが、もともと個人的な趣味であり、アルバムを見ると時代背景がよくわかるからそうしていた。けれどニコンの高級機で撮るほどのものではない。メモリーの容量が大きいと読み込みに時間がかかるため、即時の書き込みに不向きだ。だからナンシーの「消しゴム版画」が最適なのだろう。ヘタでも手描きの絵を接写するとか。ああ、それはいいアイデアだ。(やらないだろう。)

翌。とうちゃんは登園準備。8時頃起き出したわんたろうは母親を恋しがるが、「ちぃちゃんはお仕事行ったよ」というと、「まだねむいの、とうちゃんいっしょにねようよ」。そうかそうか、ならばとて、ゴロゴロ寝床でじゃれあい。無理に起こすつもりはないし、プレッシャーになるくらいなら行かなくてもかまわない。いつか自発的に、楽しむつもりで登園できるようになればそれでいい。幼稚園に行くことが、とうちゃんとふたりでいるよりずっと楽しいと思えるようになってくれたらいい。

結局遅刻せずに登園。火曜日は年長児(4〜6才)と混合クラス。
わんたろうはすぐにドールハウスで遊びたがる。ティラノザウルスは家族のペットか番犬か、はたまた暴君か。

4才の年少さんが日本地図の塗り絵をしていた。

20年以上前のことをふと想い出したが、「四大(四年制大学)出てるんだから、私は結構知的レベルが高い」という意味のことをいう女がいて、けれどたとえば秋田県が東北のどの位置にあるのか答えることができなかったり、宮城県と宮崎県を混同していたり、フランスの首都すら答えられなかった(ロンドンと答えた)ことがあり、「それはそれでいいけど(実際カメルーンの首都がなんていうのか知っていたからどうだっていうのか?)、大学出てることを自慢げに吹聴しないほうがいい、あなたは小学生レベルの問題すらできないのだから」というと、彼女は少しは恥じていたか。

「人間としてタコとして」(タコ八郎)、私たちはどうなのか?
「人間としては今ひとつだと認めるが、タコよりは賢いだろう」というのか。ならばヨガの先生はタコほどやわらかいのか。そこんとこどうなんだい? 

4才児は塗り絵という「手を使った作務」によって、全国都道府県の位置をおぼえてしまうこともあるらしい。おえかきや塗り絵、今日のクッキー作りなど、さまざまな手作業は脳の発育を自然にうながすのだろう。

一方、5才のげんちゃんは3桁以上の足し算をやっていた。例の数珠玉を使いながら。
私は彼らの楽しげな様子を感じとったり、何人かの子どもらと触れあったりしているうちに、またしても「歓喜の状態」に入っていた。

ところで、わんたろうは最後の集団遊戯で、どうにか合唱に参加してくれたのだが、帰り際のゴタゴタで年少さん(4才児)の足を踏んだらしく、わざとではないが痛がっていた相手に「ごめんなさい」を言えず、むしろ先生に反抗の態度を示していた。

よくあることだ。ていきってぃーずぃー、りるべいべ。

解散して、ひとり勇んで公園にくりだしたが、後続はなし。さっき足を踏んだ年少さんとは、くどいほど「ばいばい」をくり返していた。なんもなんも。またあそぼうね。

わんたろう、お友だち、みんなかえちゃったね。でも、イチョウの木に鳥さんが群がっているよ。ほら、見上げてごらん。

たぶん樹上にはオナガの巣があるのではないか。野鳥観察用の双眼鏡がほしい。サンタさんにお願いしようか。子どもの頃はなにももらえなかったし。

午後。託児付きヨガ教室へ。

わんたろうは隣室で野鳥のさえずりのようにぴぃーぴぃーはしゃいでいる。
私は左右の腎臓付近に腫れを感じていたし、右足の裏が痛い。めずらしく足先に冷えがある。昨日のコップ酒のせいかどうか。

夕方。自宅近くの公園へ。スダジイとクスノキの見分けはむずかしい。
野鳥が飛びかっている。カラスは滑空している。けれど、いつもいるハトの群れが見えない。一抹の不安がよぎる。

資料館で、とんとん相撲やら剣玉やら「昔のおもちゃ」あそび。剣玉は手首の柔軟さと集中力を養うだろうし、メンコは指先から肩までを鍛えるのだろう。

夜空に一番星が見えて、公園にだれもいなくなった頃、ようやく帰り。終日児戯。
私はおおむね「歓喜の状態」を持続していたが、それはわんたろうを含めた幼児らの安楽に触れていたからであり、同時にスダジイやクスノキやイチョウの大木と、それをねぐらにする野鳥らがいることを感じていたからであろうか。

今生でかわいい孫たちに会えてうれしいよ。

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フォト:寺子屋の「日本地図ぬり絵」
(なお、これらの「作務」は園児が自発的にやっています。)








…12.16、追記。(コメントが即座に反映されないので)

あさって(18日金曜夜)に長谷川穂積のボクシング世界戦が放映されます。ぜひ見て欲しいと思います。

たとえばほんとうの勇気とスポーツマンシップを感じたり、ただの暴力と高度な格闘技であるボクシングの差異を見極めるきっかけにしたり、「最大の敵は自分の中の自分」という王者の姿勢をナマで見るのは、いろいろな意味あいで刺激になるはずです。無論、どちらが勝つか負けるかは不明ですが。
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2009年12月15日

枯れ葉よ、命をすくえ。09.12.7(月)。

12/7(月)。前夜。鯛の頭焼き(150円也)でホッピー晩酌。「坂の上…」録画見ながら、本木礼賛。だから芸達者なキムラも、腐った“じゃねいず”なんかやめて、早く独立すればいいのに。ケツまくれ。

翌。嫁の休日でますます怠け。「ちい散歩」は青梅御嶽山あたり、それをば見ながら鯛の頭スープうどんと納豆めし。(なんだかめしばかり喰っているようだが。)

瞑想CD聴きながらお掃除、れれれ。「太田総理…」録画見ながら、怠け体操。しかしわんたろうの雲行きが怪しくなり、クリスマスツリーを破壊しはじめた。なにをしくさる、にいさんやめなはれ、やめなはれいうのがわからんか、うーむ強情なガキや、親の顔が見てみたいわ。

じっと鏡を見る。
…あ、なーる。貧相にして優しさを欠いている。そらぁ、子どもは荒れるわな。

ところで「太田総理」の「すべての増税をやめます」という案の「反対派」には、「さおだけ屋…」がベストセラーになった会計士がいた。著書を読んだことがないからなんともわからないが、「すべての増税」云々はともかく、「増税を回避する」という方向にむかうのが理想だとしたら、詳細は別にして「賛成」に回っておけばいいのではないか。

会計士や税理士とは、いわば「独立した公務員」のようなもので、社会のシステムが大きく変革したときには無用の職業になるのではないか。私は経験的に感じているが、彼らは有能無能な経営者らにぎりぎりの節税(あやうく脱税)の方便を指南しながら、「まともに税金を払え」という裏腹な態度をとる。なんでか? “お客様”は有能無能な経営者であり、楯突くことができない“お殿様”は税務署だからだ。それであやふやにする。政治家の納税にまで口を突っ込む度胸もない。要するに事情通のクソ野郎だ。たわけた経理の能弁士でしかない。アンタはだれを救いたいのか?

わんたろう、遊びに行こう、とて、黄色い電車で吉祥寺へ。主な目的は「クリスマス会」のプレゼント交換用品を探すことであり、動物園は休園日である。

私の好きなアジア民族雑貨店「仲屋むげん堂」にて、カラフルな卵が売っていて、まったく無意味な飾り物であろうが、幼児の喜びそうななかなかかわいげなシロモノであり、指定された上限額ぴったりだったため、購入。こういうとき、センスのないとうちゃんだけでは決断できないが、嫁がいると安心だ。ついでに、ペルーのミニ・オカリナも買ったが、この手の小道具をもっておくと、なんかの拍子に子どもの機嫌を直すこともできるからだ。

井の頭池で足こぎボート乗り。メタセコイアは葉が赤茶になって、落葉しかけている。平日月曜のため、ボートは閑散。ついでにカモも少ない。キンクロハジロとオナガカモとカルガモが全部で10羽くらいか。とくにカルガモは肥えていてうまそうだ。

陸に上がってコップ酒すすっていたら、相席の紳士が気さくな方だったため談話。通りすがりのご老人も紳士と顔見知りらしく、少しだけ会話するラッキーがあり、兵隊さんだったことまではわかったが、戦争の話は聞けなかった。

わんたろうは遊具へ。
地上は一面枯れ葉で、たぶんケヤキだろう、落葉して裸になっている。
夜になったら、きっと星がたくさんみえるのだろうな。

(すべての樹木や、虫魚鳥獣を見分けることができたらいいのに。そしてどの樹木や草花が、どの昆虫や鳥の生命を育んでいるのか、そういう共生関係のすべてが理解できるようになればいいのに。)

母子は連日おもちゃ屋さんに寄り道。私は勝手に帰宅して、難解読書しながら二合酒の余韻で居眠り。

復活して、「樹木図鑑」をアマゾンで検索していたら、いつか新聞で特集記事を読んだ林将之氏の『葉で見わける樹木』というのが見つかった。

枯れ葉やどんぐりで喜んでいる子どもたちを見ていると、「税金は魔法のようなものだ」という会計士の言葉がウソだとしか思えなくなる。私たちは金で買えないものがあるだろう。星空はどうか? 夕焼けは? 鳥のさえずりは?

子どもが枯れ葉をお金に見立てて「お買い物ごっこ」しているとき、私はなかば本気で「枯れ葉こそお金になるのではないか」と妄想した。「環境税」とはなんだろう。「化石燃料」がいつか枯渇するだろうことをふまえているのか。

政治家とその取り巻きは税金を徴収してすべての樹木や虫魚鳥獣を養う算段があるのか。歴史上あったのか。綱吉はただのアホだったのか。

傲岸不遜な面構えの政治家よ、その取り巻きよ、すべての権勢者よ、退くがいい。
桜の木は落葉して、新芽が生えていた。

バベルの塔の住民に課税せよ。あまてらすはお怒りだ。

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フォト:井の頭公園
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2009年12月13日

「あしたのジョー」はどっちだ? 09.12.6(日)。

12/6(日)。前夜。「鳥語」の学習しながら筆記、送信。「なぜ私のブログはかくも不人気なのか?」と思いつつ。

夜。咳やまず、眠れず、苦悶の転倒、明け方にまどろみ。
10時、「とうちゃんまだおきないねぇ」というわんたろうの声を聞いてさすがに情けなくなり、起床。なんとはなしに仏前でCD瞑想。宇宙飛行士のように、飛んで記憶の殿堂虚仮師。

遅いひとり朝めしは豚肉入り焼きそば。喰いながら『サンデー・ジャポン』見。ボクシング世界戦の映像は「亀田有利」を印象づけるように編集されていた。私の印象では、亀田がまともに打ち合いに応じたのは最終ラウンドくらいであり、あとはカウンター狙いに徹していた。内藤サイドのコメントも同様に都合よく編集されていた。

【8回終了時には0−3のアナウンス。「取り返そうとしたけど、逆に差が開いていくんでびっくりした。でも、判定が覆るわけじゃないし、納得しなきゃいけない」。】(翌日のスポーツニッポン、内藤発言より)

記事の正確さは確認のしようもないが、テレビの再現映像ではこういうコメントが一切なかったことに注視してみたい。「弱いねぇ、口ほどにもないねぇ」のように内藤が自虐的に語るのは勝った試合でも同じで、いつものことであるのは、ファンや視聴者にとって周知の事実だ。むしろ上記のように「判定を疑問視した」ともとれる内容のことをいうのはめずらしいのだから、番組がより公正であろうとするなら、上記のようなコメントを放映するべきではなかったのか。


だれかが後ろで、あやつろうとする
だからオレは、ときどき手を抜く
(RCサクセション、「つ・き・あ・い・た・い」)

うがって見るならば、亀田の優等生的なコメントには、「それを脚色しただれかがうしろにいる」のだと疑いたくなる。番組に特別出演した亀田はまるで「ベビーフェイス」で、唯一の個性だったかつての悪童ぶりは消えていた。だが性根を入れ替えたというより、(TBSの方針を弁えて)ずるくなっただけだ。けれど亀田本人がどうこういうより、彼らを取り巻いている雰囲気がうさん臭いのだ。

ともかく、亀田の復権は成就された。
TBSの思惑通りなのだろうか。だが私が思うに、ボクサーとしても人間としても突出したキャラクターは圧倒的に内藤であり、TBSが亀田をかつぐ意図はどうにも理解しがたい。「ZONE」時代からの執念としか思えない。

今後「亀田戦」の放映権はTBSがになうのかどうか知らないが、次からの挑戦者が勝つにはKOしかない。テレビはこわい。そしてあほらし。出演者はだれもほんとうのことをいわない。(あるいは私が狂っているのだろう。)

TBSはクソだ。そして寄り目の照り焼き丼は、今日もことさら深刻ぶった表情で亀田を擁護していた。局の方針をよく理解しているのだろう。おりこうさんの世渡り上手め。せいぜい剛田腋子と馴れ合え。永谷園の茶漬けに顔面突っ込んで溺れて死ね、リーヴ21で覆った頭上の池に飛び込んで死ね。のーもあ、悩み無用。あなたの神はあなたのペテンを曝くだろう。

ところで天帝は知っている。内藤の魂がグレイトであることを。オレがほんとうのことを指摘すると、狂人と見なされることを。

午後。神田への移動中、吉本翁が推奨していたグレゴリー・ベイトソン『精神と自然』(佐藤良明訳、新思索社)読みはじめ。かなり難解本。「結び合わせるパターン」、「太古的なコンテクスト」などはヒント。私はひたすら記憶の断片をつなぎ合わせようとしている。現代とはちがう時代に理想に近いイメージを仮想している。どこに真実があるのか? あるいはどこに操作や介入があるのか?

チベット人やネイティブ・アメリカンは、わしら日本人ほどウソつきじゃないかもしれないぜ。

喫茶店で語学の復習していたら、オババの3人組がひたすらだれかの悪口を言い合って鬱憤晴らし。「イライラする」というセリフが、少なくとも3回聞こえた。となりの若衆は芸能人のことをああだこうだと批評している。あほらし、批評はいいが真実を語れ。少なくともおまえの自慢話にすぎない知ったかぶりの批評スタイルをやめておけ。ココロのブ男め。鳥の声を聞いているほうがはるかに健全だ。

帰路。昌平橋から淡路坂のぼり、聖橋近くの「ディスク・ユニオン」でフランク・ザッパ中古盤2セット買い。荻窪にもどって、「西友」内の書店で学研の「ポケット昆虫図鑑」買い。おもちゃやで母子と合流。とうちゃんはひそかにプレゼント物色。

『ジョーのガレージ』のあと、野鳥のCD聞きながら筆記。
なぁ、あんさん、空の鳥を見なはれ。鳥がどないな心配をしてるねん。

「だから、あしたのことを心配するな。あしたはあしたが自分で心配する。一日の苦労はその日の分で沢山である。」(マタイ、6-34、岩波文庫『福音書』)

あしたがどっちであろうが、今日の苦労を「かきかき」したいぜ。

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フォト:聖橋から
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2009年12月12日

ばるばりっく・ぶるーす。09.12.5(土)。

12/5(土)。前夜。「ブラタモリ〜本郷」録画見ながら、辛味噌湯豆腐で晩酌。そういえば本郷にある鮨屋のおとうさんの墓参りに行かねば。

翌。明け方に「大洪水」夢見。私は流されているが、なぜか楽観的だ。
8時起床。わんたろうはコロッケかじり、味噌煮込みうどんは喰わず。とうちゃんはそれらの残りを急ぎ喰い、おにぎり作って出動準備。『三昧王経2』読。

「ある人の身体を構成する要素に粗野な観念などが生ずるならば、それは(清浄な心と)相応しない観念があるから、心もまた粗野なものとなる。」23頁

…「清浄な心」からはほどとおい。まったくもって「ココロの粗野」。それをばいかんせん。ささいなことで苛立つが、巧みに押し隠してしまうこともできる。じつに冷血である。

たとえば、わんたろうが今朝「たっきゅうびんみゆよぅ(「魔女の宅急便」のこと)」といいながら、ビデオテープをいじり回して再生不能にしてしまったため、「今日は登園日で時間がないのに、なにをしてけつかる」と内心フンガイしながら、「わんたろうが磁気テープを直接触って引っぱったからビデオが見れなくなっちゃったよぅー、別にとうちゃんが意地悪してビデオを見せないようにしているのではないよぅー」と、文面ではわかりにくいが、かなり底意地の悪い言い方をしてしまった。

つまらねぇことで怒るんじゃないよ、諸行無常だよ、バーロー。

じつに私は悪辣なるココロをどないしたらええねん?
日常の歩行姿勢が前傾していることに気づいたのは、鏡の前でおこなう「ベビーヨガクラス」の最中だった。私の身体は粗野である。そういえば、そーやそーやと合いの手がはいる。「アンタはいつも文句ばかりいう、イヤなヤツだよ」と嫁がいう。

前傾姿勢は「引きこもり傾向」や「社交性欠如」のあらわれであり、根性のいじけや恥の気配を完全払拭することはできないのだろう。そしてずぼらなクセに抜け目のないところもある。不気味に笑う。はひふへほぅと。

寺子屋へ。私が学びたいがゆえに。そしていつになったら、だれかに教えたり与えたりする立場になれるのか。胸を張って生きることがあるのか。なぜこの世は生きにくいのか。

わんたろうは前回登園時同様、シルバニアのミニハウスで人形遊びして、なぜか階下にはティラノザウルスのビニール人形を寝かしている。ときどきうさぎを喰わせたりして。

げんちゃんのおとうさんとは初対面だったが、私はまともにあいさつすることもできなかった。そのおとうさんはひとめで知的レベルの高いことがわかるような風貌で、げんちゃんもまさにそうなのだ。

わんたろうは終わり間際に愚図って、集団遊戯から外れてしまった。でもこのときの愚図りは、児童館での参加拒否とは意味あいがちがうのかもしれない。はっきりわからないが、「集合の合図」が同時に「終わり」を意味することを察知しているから、ふんぎりがつかないのではないか。

終えて、直近の公園で遊ぶのはわんたろうひとりだったが、少年がひとりで「野球ごっこ」をしていた。プラスチックのバットでノックして自分でボールを拾う動作を何度もくり返していて、わんたろうはその様子をおもしろそうに眺めてはぎゃあぎゃあ騒いでいる。

じねんと3人で遊ぶことになり、少年が小学校2年生であること、練馬から引っ越してきたことなんかを話しながら、野球ごっこ。

「ねえ、バッティングセンター行ったことある?」と聞くと、
「あるよ、学級閉鎖でしょ、こないだインフルエンザで学校休みだったんだよ」

「ばってぃんぐせんたぁ」が「がっきゅうへいさ」に聞こえたらしい。

少年は「こんどいつ来るの? またいっしょにあそぼうよ」といってくれた。ありがとう、少年。いつかわからないけど、またあおうね。

少年が去っていたあと、わんたろうはとてもさみしそうな顔をしていた。
「わんたろう、お兄ちゃん帰っちゃったね、さみしいね、でもこのあとヨガに行こうよ、またお友だちに会えるよ」

ベビークラスへ。
先生はまたしても子どもらの揉め事を巧みにさばいていた。このフトコロの深さを「三昧」と称してもいいのではないか。幼さも、いじけも、ふてくされも、親の未熟さも、すべてやわらかく抱えこんでしまう。「あなたみたいなかわいい子はいないのよ」。先生はあっさりおっしゃっていたが、そんなこと、だれがいえるだろう。まして他人の子だ。

このような「人間力」は容易に真似ができない。「かわいい子」といわれた少女は、「幼稚園の先生はいつも怒ってばかりいるの」と、なぜか私に訴えてきた。私は凡庸だから、「そうなんだ」とうなずくだけ。ただ、ココロの底を溶かしていくだけ。

毎度南阿佐ヶ谷のパン屋で軽食して、遊び足りなそうなわんたろうをなだめて帰路。雨がしゃあしゃあ降る中、わんたろうは入眠。

宵。フランク・ザッパ聴きながら「かきかき」。知性から遠いまま。

ところでザッパの『いたち野郎』と『フリーク・アウト!』をいくら探しても見あたらないのは、十何年か前にロック好きの友人に貸したままだからだと想い出した。T.レックスの『電気の武者』LPも貸したっきりになっている。

価値がわかっているならいいが、LPで所有していることの稀少さ云々だけではなく、たとえば「リップ・オフ」という歌曲のかっこよさが感じ取れるかどうかが問題なんだ。

…とかなんとか、苛立ったりして。粗野である。怒ってばかりいる。

そんなオレは「リップオフ」
母親の乳房と離れるのが早すぎたのさ
12才から踊りはじめて、13才で万引きして
14才で「親が死ねばいいのに」と願っていたよ

オレはトラックを借りて
忙殺された親の時間を取り戻そうとしただけなのに

月光のもとで
あなたが抱いてくれたらいいと
願っていたんだ
くちびるが

それすらわかってくれなかったね

だからオレはダンスする

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2009年12月11日

生きているだけでよろし。09.12.4(金)。

12/4(金)。8時過ぎ起床苦悶。わんたろうにギョーザあたえて浮浪オヤジ。しばしのち、シャケと昆布めし、油揚げ入りみそ汁やら喰うて、日常的煩瑣事やったフリしてザッパ本少読。

フランク・ザッパにはヒット曲がない。
だからほとんどの人は一生無縁で終わるだろう。そういう人は、桑畑下助や遊民のほうがはるかにすぐれたメロディーメーカーだと信じているのだろう。さて、ビヨークはどうか。椎名林檎はどうか。ローランド・カークの「溢れる熱い涙」とか、エリック・ドルフィーの「スプリング・タイム」を愛聴することはあるだろうか。あれはチベット密教の音響に近いのではないか。(と思ったことはあるだろうか。なくてもいいけど。)

今年の「紅白歌合戦」に矢野顕子は出るのだろうか。忌野清志郎の追悼儀式はあるのだろうか。ヒットメーカーでまともなのは井上陽水くらいではないのか。なんだか気色の悪い、何が言いたいのかわからないような甘口の歌い手がまたぞろ出てくるのか。

体操へ。
最中、とうちゃんはタバコ税等の国民的支払い。さらに福岡伸一『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書)ようやく読了。これほどの難解本がベストセラーになるのはめずらしいのではないか。そして私はこの著者の作品を継続して読んでみようと思う。

「生命とは動的平衡にある流れである。」167頁

「これを乱すような操作的な介入を行えば、動的平衡は取り返しのつかないダメージを受ける。もし平衡状態が表向き、大きく変化しないように見えても、それはこの動的な仕組みが滑らかで、やわらかいがゆえに、操作を一時的に吸収したからにすぎない。そこでは何かが変形され、何かが損なわれている。」285頁、「エピローグ」より

…むずかしいので、誤読を承知で勝手に解釈する。
私たちは揺れ動きながらバランスをとろうとするのであり、なにかしら欠損を抱えている場合でも同じだ。だから身体のどこかが不自由である場合、別の機能や感覚がそれを補完しようとして発達する。そういう意味においては、人はいかなる身体的障害を抱えていても平等だと思える。

また、胎児から少年期までを大きな「動的平衡の流れ」であると見なすならば、保護者や教育者は「これを乱すような操作的な介入」や口うるさい干渉をできる限り遠ざけておくべきだろう。

「それはこの動的な仕組みが滑らかで、やわらかいがゆえに、操作を一時的に吸収したからにすぎない。そこでは何かが変形され、何かが損なわれている。」

…「動的な仕組み」を「乳幼児期の身心の発達過程」と読みかえてみてもいい。

体操終えて、「こうえんいくよ」とわんたろう。善福寺公園に向かいかけたが、寺子屋のクリスマス贈答品物色作務を想い出してUターン。「ダイソー」で一応300円物品購入。天祖神社へ。わんたろうは地上いっぱいのイチョウの落ち葉ではしゃぐ。

さらに移動。環八渡るときに、「お弁当買おうか?」と聞くと、わんたろうが「うん、おべんとぱえゅよ」というので、仰せのとおりに。290円のカキフライ弁当とタイ産鶏唐揚げ260円買って公園へ。

迷走した果てに小さな児童遊園へ。「ここでぱえゅ」というから、仰せのとおりに。

尻面ローラー型すべり台でさんざん遊戯して移動をうながしたとき、今までだれもいなかった公園に見知らぬ母子が集まりはじめた。近隣幼児の「定刻集会場」だったのだろうが、もう帰ることはできない。

わんたろうは人見知りせず、どこかの母子に笑いかけているし、意味不明の言葉を連発しているので、手狭な空間で居心地の悪くなった父はベンチで読書。田口ランディ『木霊(こだま)』(サンマーク出版)読了。

「とても小さい頃から、自分はみんなとは違うのではないかと思っていました。/どこがどう違うのか、うまく言葉で言えないけれど、私は自分の住んでいるこの世界のことがちっともわからなかったのです。」(冒頭)

「…保育園での出来事はあまりに速すぎて、私には理解できなかったのです。」

「命はただ、存在しているだけで、ギフトなのです。」(巻末)

…短編なので一気に読むこともできる。
けれどいちいち考えさせられたり、篁カノンという人の挿画を見つめていると、魂の内奥に潜行していく気分になる。(今思い出せないが、岩波文庫でメドゥーサの線描画を描いただれだかの画風に似ている。)

私は今でもおとなたちがなにを話しているのか、「速すぎて」理解できないときがある。
体操クラブでも公園でもそうだが、おかあさんたちが話していることをうまく聴き取ることができない。けっして「下らない世間話」だと思いこんでいるからだけではない。鳥が飛び去っていく時に発する声のほうに集中してしまったり、子どもたちの嬌声や、未発達な発語に魅了されてしまうだけだ。

西の空に一番星が見えても、わんたろうはまだ遊びやまない。近隣の小学生5〜6人とじゃれあっている。年長者に物怖じしないだけでなく、みんなにかわいがられている。その光景をスダジイとケヤキが見守っていた。

長丁場だったが、わんたろうは満足したらしく、「いっぱいいっぱいあそんだよ」という教育テレビの挿入歌をくり返しうたっていた。とうちゃんはすっかり凍えたが、小学生に感謝しておなかのあたりがあったかくなっていた。

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フォト:天祖神社
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2009年12月10日

ふぁっくしてぼーん。09.12.3(木)。

12/3(木)。前夜。NHK『熱中時間』で、高円寺のアマチュアバンドマンを撮影しつづけているオバチャン話見ながら晩酌。

現実の高円寺界隈のバンドマンはどうだったか。彼らはライブハウスの経営を支えているだけではないのか。「カモにされている」ことを超えようとするほど音楽に熱中したり、なにかいいたいことがあるわけでもない。ただ爆音に埋もれてとんだり跳ねたりするのが好きなだけで、肝心の歌詞は聞こえてこない。たぶん歌を聞かせるほど自信がないのだろう。そしてときどき抜群にうまいドラマーがいたりする。
愛されなかった潜在意識を辿るのは、打楽器が相応なのかどうか。まるで母胎で心音やら脈動を感じることを懐かしむように、ライブハウスに入り浸る若者がいる。そして高円寺という母胎から出ようとしない。

高円寺はバンドマンのルツボでもあるが、はきだめでもある。
だれかはバイト先の後輩に無理矢理チケットを売りつけたりして、いつか有能なセールスマンになる力量を養っているだけかもしれない。だれかはライブハウスは自分が出るよりも経営側に回るほうがお得なのだとさとりを開くのかもしれない。髪を切ったり、ネクタイを締めたり、資格を取ったりして、「おとな」らしくなっていく。

ロックはもう卒業だと、アイツは髪を切った
お似合いだぜ、いい頭だな
(忌野清志郎、「ベイベー、逃げるんだ」(筆記は聞き取りによる))

そしてどこでもそうであるように、威張るのが好きなクソみたいなヤツだけがそれなりの社会的ポジションにいつくようになる。プロにはなれなかったが、演奏技量も人間性もすぐれていただれかは、優しさや誠実さゆえに落ちぶれていく。

寝床で、賢治さんの短編『沼森』読。この自然愛は近親憎悪に近い。

夜明けに喘息発作と思いつきやまず。
わんたろうの「ちちばなれ」が進まないのは、「ゴキゲン時間」の遅延行為だ。ふたおやがそれを放置しているのはまちがいではない。反対に性的異常者は、幼児期に十分な「ゴキゲン時間」を与えられていなかったから、そうなっただけだ。

わんたろうが現在凝っている「うさぎの家」造作は、河合隼雄の「箱庭療法」とよく似ていて、「無意識の表出」を意味しているのだと思う。だとすれば、わんたろうが2階3階に人形を集めて、1階にはだれもいない(もしくは恐竜だけがいる)状態をつくるのは、現状の我が家を再現しようとしているのだと思えてくる。意味もなく3階に人形を押し込めているのではない。

「とうちゃん、いっしょふぉはいゅよ、いっしょねゅよ」

いっしょに風呂にはいること、いっしょに眠ること、3才のわんたろうはそれを熱望している。

翌。寒雨。わんたろうは11時からの児童館参加を断固拒む。ねばって説得したが、どうにもならず。雨の中、ダッコして放浪。
時間調整のため丸の内線の中野坂上まで乗り越し、南阿佐ヶ谷に引き返してヨガ教室へ。どうにか機嫌直し。

途中、田口ランディとフランク・ザッパ本、きれぎれ読。

宵。フランク・ザッパのCD『チャンガの復讐』聴きながら、続読。

「アメリカ人の精神衛生が蝕まれた原因のひとつは、全国民が「愛の歌」を聞かされて育った点にあると俺は考えている。」

「ロマンチックなコンセプトとしての「愛」が、うだうだと語られてゆく場合もある ― とりわけ、繊細なシンガー・ソングライターがこさえる歌のなかで。」
(『フランク・ザッパ自伝』111頁、茂木健訳、河出書房新社)

偶然にもこの日のミクシイでは、「私の人生に影響を与えたロック歌手」の1位が大酒夜鷹だった。私にはどこがいいのかわからないが、高円寺の自称「パンクロッカー」どもも、カラオケで歌うのは案外「愛している」であり、「盗んだバイク」であり、はたまた崖淵強の田舎くさくて女々しい歌であった。「きしむベッド」で夜中ファックして気色が良かったという歌詞はどこにもない。

カラオケ屋でザッパ&キャプテン・ビーフハートの「デブラカダブラ」を選曲しようとしたのが、私だけであることはいうまでもない。(だからなんなのさ。)

バンドマンよ、15ではなく、むしろ「産後の夜」の記憶をたどればいい。

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フォト:誕生祝いの飾りつけ
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2009年12月09日

満月のゆうべ。09.12.2(水)。

12/2(水、満月)。前夜。フランク・ザッパ本寝読。就寝前に嫁曰く、「とうちゃん具合悪そうだよ、突然死しそうな感じ」というから、思わずニヤニヤすると、「とうちゃんうれしそうだね」というので、「いやまぁ、あれだね、わんたろうがいるからそんなこともないけど、苦しまずに死ねるなら悪くないかなぁと思ってね、それとも苦しいのかね」、「たぶん苦しいだろうね」、ひゅぅー。

深夜に喘息発作。嫁が処方してくれた「気管支拡張ガス」吸入後も、あまり眠れず。密林の薬草医よ、われに魔法のキノコを。…うとうと夢見。空飛ぶ円盤が飛来して、「あぁやばいな」と思っていたら攻めてきた、「皆の者、早く逃げるべし」と大音声。途中不覚で、つぎはラクダの体をシャンプーで洗っている。ラクダはときどき愛情表現として私の頭をかむので、適宜それをやめるように注意している。なんだかわからないが、「円盤」は満月を見たせいで、ラクダはいつものごとくニャンタロウが腕枕で爪を立てるからだろうか。

月の砂漠のダラク人生。

朝。脳内カスミ。9時頃わんたろうと同時に起床して、教育テレビをつけてギョーザをあてがっておいて(つまり放置して)、『三昧王経1』読。

「平等性に立脚している人々は、常に、高ぶることも卑下することもない。愛からも憎しみからも解放された人々は、常にとらわれのない心でもってすごす。」321頁

…「かきかき」している最中は、ある程度高ぶっていないと最後まで書ききれるものではないし、まして「全体に公開」はできない。「オレ様は有能な漫才師だ、だれかひとりくらい面白がってくれる読者がいるにちがいない、否、いないかもしれない、読者はゼロかもしれない、しかしそれでも怯むことはない、いちいち考えすぎていたら公開文書など一生書けない」。

「愛からも憎しみからも…」、解放されない。別に憎くもないが、波動が合わないというのか、ときどき苦手なママゴンと出会うときにうまくやりすごすのはいつでもむずかしい。けれどわんたろうは、そんなことおかまいなしの猪突猛進だから、私はひたすら追いすがるのみ。

納豆めしと焼き豆腐入り大根みそ汁喰って、体操クラブへ。

道中、なぜか怪獣話。リトラよりゴモラが好き、ミクラスよりもゴモラが好きというので、じゃあとうちゃんとゴモラはどっちが好きかとたずねたら、「うーん、ばるたんせいじん」だと。かわすのがうまいな。

体操中ゴキゲン。にかにか笑っている。でもスキップはヘタだ。
往復の軒先は「サザンカ山茶花咲いた道」。神明橋から置田橋でカモ見。光明院のスイセンは早くも開花。お地蔵様になむなむ。

帰宅して昼飯は喰う気なし。めし抜きで寺子屋へ、一番乗り。

昨日飾ったクリスマスツリーを見て、「たんじょうびだ」とわんたろう。いえす、といへり。わかっているのかいないのか。

シルバニアと恐竜で遊ぶのはきのうと同様。もうひとりの付き添い母曰く、「うちは半年以上こればかりやってました」、そうですか、いつになったらビーズ細工まで進めるのでしょうかね、もっと早くから寺子屋を知っていたらよかったと思う、今日この頃です。

集合遊戯はクリスマスソング合唱だったが、わんたろうは機嫌よく参加してくれた。

ああ、そうだ、帰ったらクリスマスのCDを出しておこう、確かジャズのヤツが数枚あったし、小野リサのもあったはずだ。

解散後、近くの公園へ走り出したのはわんたろうだけで、とうちゃんとふたり遊び。しかし、だれも来ないことを気にしていたのは私で、わんたろうはひとりはしゃいでいる。西日が松の木を照らしている。イチョウの木にオナガ(らしき鳥)が飛来しているし、昨日のクモは同じ姿勢で待ち受けている。ベンチでせんべいやらおにぎりやらを給食。

4時過ぎに帰りかけたが、ダメだった。「あっちのこうえんいくよ、ともだちいるよ」。
確かにいた。また小学生のレイ君と再会。友人を3人連れていた。彼はそうとうな人気者であることが、会話の端々で理解できた。

資料館が閉まるまでミニカー遊びして、退室したら外は闇だった。東の空に満月がのぼりはじめている。

月の動きを見切ることはそうとうむずかしい。
ねえ、おとうさん、月はどうして見える時間や形がちがうの?

むーん、わからん。月経のあるほうに聞いてみんしゃい。

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フォト:人形の家。1階に不似合いな恐竜がいる。
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2009年12月08日

煙突とお月様。09.12.1(火)。

12/1(火)。前夜。晩酌中にひらめいてダボラ話。「テレビ局はあらかじめ指示を出していたかもしれない。つまり、どんなに汚くてもいいから、最終ラウンドまでもちこたえるボクシングをしろ、早いラウンドでダウンしないように相手と距離をとれ。とにかく視聴率のことを考えて、できるだけ試合を長く引っ張れ。視聴者の印象は実況で脚色するからだいじょうぶだ。判定なら必ず勝てるように裏工作する。なんせキミはうちのドル箱スターなんだから」。

噂を信じちゃいけないよ、私のココロは不具なのさ。

私は別にあの人がきらいではない。けれど、現状で王者になるほど技量がすぐれているわけでもない。スピードもテクニックも闘争心も「世界のトップレベル」から程遠いのではないか。無理をさせているのはだれなのか。ゾーンの犠牲者。

翌。登園日。念のためおにぎり作ってお粗末弁当。わんたろうはぎりぎりの起床だったが、遅刻してもかまわないつもりで支度。行きがけに愚図ることなし。外は快晴温暖。「おもちゃのチャチャチャ」うたいながらご機嫌モード。

火曜日は年長者との混合クラス。クリスマスの飾りつけは全員作業。わんたろうはあまり乗らず。十数人の園児に同伴親は3人、先生が4人。わんたろうはこれといって「作務」にかかわるのでもなく、「シルバニア」(というらしいことを他のお母さんに教えてもらった)のドールハウスでとうちゃんと遊び、さらに恐竜のビニール人形で遊び。家にいるのと変わりがないが、まだ1ヶ月だから、こんなものだろう。

ところで1年上の4才児は足し算をしたり、ビーズ細工にはげんでいる。だれが促しているのでもなく、自分から率先してやっている。4才児の足し算はどうやるのかといえば。

たとえば6+3なら、串刺し団子状になった「6つ並びのビーズ群」と「3つ並びのビーズ群」(数字ごとに色分けされている)を小箱から取り出して、ビーズの数をひとつひとつ数えることで正解を導き出す。

○○○○○○たす
●●●は、

○○○○○○●●●、123456789(とビーズを数える)
全部で9こ、ゆえに答えは9

「9」の筆記は見本をみてまねる。

算盤の要領に近いようだが、5を意味するタマが存在しないぶん、幼児にとって理解がたやすい。幼児は眼と指先をつかってビーズを数えることで正解を得る。教育テレビの「マテマティカ」(不明、要確認)という番組も、「イッシー」なるサイコロ型の群団キャラクターが出てきて、図形の面積をはかったり、大小差を比較したりする。同じ意匠だろう。

何度見ても「すごい」と思う。そしてわんたろうが1年後に同じことをできるのかどうか。

11時から「集団行動」(というのか)。けれどわんたろうはひとりグループを外れて、節分豆挽き、間食。だれもとがめない。だから「落ちこぼれた」気分になることもない。

先生はみな寛容だし、子どもたちもそうだ。だれかが一風変わった行動をしても、それを否定するものはだれもいない。

12月から「短縮保育」のため、11時半でおしまい。向かいの公園で年長女児数人と交遊。
植え込みの外れで、女郎蜘蛛が冬の陽光を浴びながら辛抱強く待機している。

帰宅して昼飯。イカと里芋煮、焼き豆腐と大根みそ汁。わんたろうはサツマイモと弁当のおにぎり、みかん。外出を拒むため、室内ダラダラ遊び。フランク・ザッパ本、きれぎれ読。

夕方外出。東の低空、銭湯の上あたりにほぼ満月。○。
月が異常に近く見えるのは錯覚か、吉兆か。はたまたポニョポニョ現象か。

「するとそこにおる間に、マリアは月満ちて、初子を産み、産着にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には場所がなかったのである。」(「イエスの誕生」ルカ、2.6-7、岩波文庫「福音書」)



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フォト1:「イエス誕生」模型群

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フォト2:寺子屋前公園のクモ
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2009年12月07日

さみしからずや、デジタル記憶。09.11.30(月)。

11/30(月)。前夜。「勝ったのは内藤大助だ」と書いてミクシイ公開文書にしたが、情報操作するにはあまりに読者が少ない。私の場合いつでもそうだが、「友人公開」にしても「全公開」にしてもほとんど変わらない。ってことは「(下書きにつき)非公開」の現状を、「(下書きだけど)全公開」にしても、なんら問題はないということだ。(いかんせん長いか。)

翌。嫁が休日のため、ダラダラ朝寝。「とうちゃん、いっしょにふぁんぱぇようよー(ごはん食べようよ)」というわんたろうの声で起動。煮込みうどん食。油揚げが入っていてうまい。油揚げ、厚揚げ、がんもどきなどは好物である。「日本人に生まれてよかった」と思うひとときである。

「99イチバ」でスポニチ買って、玉露をすすりながら「プロの見解はどんなもんだべか?」と思ってチェック。元世界チャンピオンの徳山昌守の解説によると、「私の採点ではドロー」だと。そうだろうそうだろう、遠慮がちにいってもドローか泥仕合だろう。けれどシロウト目には、血を流して鼻まで折られている内藤が劣勢であるかのように見えるのはやむを得ないことだ。そして私の見解は真実を見切ろうとしていることにおいて、なかなかなものである。はひふへほー。

参考1:ジョー小泉氏(マッチメーカー)のコメント
「亀田が消極的なカウンター戦法で勝ったのは画竜点睛を欠く。内藤がファイトしてきたのに…。少し残念だった。」(スポニチ記事より)

ガッツ石松、輪島功一、具志堅用高あたりはどういうコメントをしているのか。

参考2:当日解説者だった鬼塚勝也氏(元世界スーパーフライ級王者)のコメント
「素晴らしい内容の好ファイトだった。闘志が激しくぶつかった。亀田興毅のクレバーさが光った。」(同上)

…「クレバーさ」か。

記事が確かなら、鬼塚はただ成功することだけを至上目標にしている阿呆だ。アンタこそ現役時代からずるがしこくてカッコつけだった。辰吉丈一郎とは比較にならなかった。辰吉には天才肌のボクサー特有の「捨て鉢」気味な傾向があった。だから私たちは彼が好きだった。内藤もしかりだ。「肉を切らせて骨を断つ」というのか、死や痛みをおそれないファイターとしての魂が備わっているように思えた。たこ八郎もそうだったのだろう。

そしてTBSは、「よく事情をわきまえた」だれかしか解説者として起用しない。もっとあぶない言い方をするなら、TBSは審判員を買収していたと勘繰りたくなる。実況はいかにも内藤が不利であることを印象づけようとしていたし(このアナウンサーはクズだ)、ジャッジはもっと拮抗していいはずだ。少なくとも「大差で負け」ということはない。

亀田は『ZONE』(2005年あたりに放映していたTBSの番組)の頃から、TBSの「スポーツ部門育成タレント」だったのかもしれない。とにかく臭い。


午後。嫁が風邪で寝込んでいるので、わんたろうとふたりで外出。
遠回りして「荻窪区民センター」なる施設を視察。わんたろうが「いってみよう」というからだが。

子どもが遊べるような設備はなにもない。けっこう広いホールにご老人が7人ほどいて、囲碁将棋をはじめたようだが、あまり有効活用されてるとは思えない。職員のほうが多い。ついでに先日開催された「荻窪時代の太宰治」の講演記録がないかどうか尋ねてみたら、「それは某々の主催でしたので、こちらには記録がありませんが、明日の会合ではそういう話が聞けるかもしれません」という趣旨の説明があったが、「それは受講しただれかれが各々記憶している限りを聞けるかもしれない、という意味でしょうか」と聞き直すしかない。何が開催されていても興味がないから、「だれかに聞けばわかるかも」という答えしか返ってこないのだろう。それなりに丁寧な対応だったし、別に職員が悪いわけではない。システムに問題があるのだ。「太宰治」の「宰」が誤記で、「ウ冠に幸」というありもしない字であることに、だれも気づかなかったことも大目にみておく。

ともかく、「区民センター」の類は豪華だし、「児童館」はそれなりのスペースをもっているわりには住民の利用度が低い。民間企業に任せて、補助金を出す方法に移行したほうがマシであることは確かだと思える。私たちは近隣の公共施設をもっと「視察」してみるといい。そして、これがムダな設備だと感じるなら、「オレならこうしてみる」という具体案を想像してみるといい。いつだって黙っているか、口を開けば文句だけというのでは、解決の糸口は見えない。

近衛邸前を通過して、紅葉見頃の「大田黒公園」へ。
当初乗り気でなかったわんたろうは、公園に着くなりはしゃいでいた。「はっぱきいろいね、あかいのもあるね」。

あ、どんぐりだ。
砂利道に無数のどんぐりが落ちている。
まるいのはクヌギかな、小さくて細長いのはシラカシかな、とうちゃんは「ポケット版 学研の図鑑」で勉強中だよ。どんぐりころころ喜んで。

幼稚園の童女が現れ、わんたろうの手を引いてあちこち連れ回すのはいいが、拾い集めたどんぐりを池の鯉にあげようとするため、「だめだよぅ、鯉はどんぐり食べないよ、あげちゃいけないよ」というが、「どんぐりたべるよ、ほらね」といってどんぐりを投げ入れるし、実際鯉はエサとどんぐりの分別をしないので飲み込んでしまう。「ほらね」。

おねえさん、そうじゃなくて鯉はなんでもエサと間違えて食べてしまうだけだよ、だからやめよう、鯉さんがお腹こわしてしまうよ、悪くすると死んじゃうよ、

このやりとりはかなりねばったつもりだが、童女は鯉がどんぐりに食いつくことを見ているから、私の言葉を信じようとしない。母親同士はベンチでくつろいで惣菜の話でもしているのか。ああ、どうしたもんだべ、鯉の命がかかっているからには、巧みに説法するか、怒鳴りつけるか、お尻ペンペンするしかない、アヴァロンよ、われに作法を伝授したまえ。

しかしいかなる天使も降臨せず、私は童女を止めるために「どんぐりの喰い方とはどんなものか」、「縄文人はどのようにして喰ったのか」と思案したが浮かばず、童女には「ねえ、殻付きのままあげるのはやめようよ、人間だって殻付きのまま喰わないでしょう、栗は殻むいて茹でて喰うでしょう、まして鯉は殻むいても消化できないし、鯉にはとくべつのごはんがあるのだよ、だから池に投げないでぇー」と言ってるそばからどんぶりこ。

かくなる上は、「てめぇなにをしやがると怒鳴る」「お尻ペンペン」「七年殺し」「ぶっとばす」などの懲罰を与えようと考えたが、私は童女の手先を止めるだけでとどめておいた。ちなみにわんたろうも、連れの男児も、池にどんぐりを投げ込む行為を真似ようとしなかった。

どんぐりころころ喜んで、しばらくいっしょに遊んだが。

嫁が合流した。ご老人たちは愛用の高機能デジタルカメラで紅葉を写している。
「オリンパス・ペン」の最新型をもっているご老人と少談。私はてっきりクラシックカメラだと思っていたが、そうではなかったし、「初期型のペンをもっている」と告げても、ご老人は自分の現在のカメラだけに興味が集中しているようだった。

帰路。善福寺川の春日橋付近にシラサギが飛来していた。私は脳裏に念写する。
老いて余裕を得たなら、銀板写真にもどりたい、ような気もする。あるいは写生がしたい、しゃせいがしたい。

宵闇迫り、「OK」で買い物。耳鼻科へ寄る母子と離れ、ふと思い立って南口のやや東寄りにある「ささま書店」で、岩波文庫『与謝野晶子歌集』を210円購入。荻窪ではここが最高の古書店だと思う。

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写精:大田黒公園
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