7/3(金)。曇天。天気予報は夕方雨。
前夜。なぜブログの読者が少ないとか、嘆いたフリばかりするのか。あるいは、それが本気ならどうして自分のブログを宣伝しようとしないのか。ある程度人気がなければ通用しない、売り込まないのは怠惰か自信のなさのあらわれでしかない。根幹には人間不信がある。それでどうすればいいかというと、名案はひとつも浮かばない。ただ書きつづけるだけ。だれにでも見てほしいわけではない、ということだけは確かだ。(緑川君にはぜひ見て欲しいが。)
翌。いつでも起床苦。昼間のパパはちょっとぐうたら、朝のパパはひどくぐうたら。ともかく、シュタイナー『超感覚』読。
「畏敬の念に充たされた魂のオーラは変化している」、「畏敬が魂の中に共感作用を呼び起こし、」32頁
…ミクシイのコミュニティを見ていると、「畏敬の念」というのはうまく表出されていないことに気づく。場合によっては挙げ足とりのような突っ込みが入ったり、そうでなければ無暗に熱狂したファン意識を表明するだけだ。なぜ好きなのかを、格別分析する必要もないだろうが、「これこれこういう理由だ」というくらいは書けそうだ。適宜引用して、読者の考察を促したり。イベント情報ばかりでなく、私たちはそういうふうにして、もっとうまくコミュニティを活性化できないだろうか。「共感作用」はもっと広がるはずだ。これは吉本翁や中沢氏に限らず、清志郎なんかももっと感想文を書いてみればいいのに。非活発であることは、私も例外ではないが。私の場合は何度か嵐が起きたから引っ込んでいる。知的なコミュニティは自慢げな気配が多く、ポップなコミュニティでは和合や浮かれが多い。たぶん、清志郎はそういうことを望んでいない。吉本・中沢両氏に関しては、著作ごとに議論したり、ひとりごとをつぶやいたりするようなやりとりが生じてくればいいと思う。書き込みする人はそれなりに勇気が要るのだから、よほど図々しい輩でない限りは互いに尊重し合えばいい。ほんとうは、私たちはそういう「おしゃべり」がしたかったはずで、別に「こういうコミュニティに入っています」という看板製作がしたかったのではない。
「常に「気ばらし」を求めている人は神秘学への道を見失う」
「だから神秘学徒はひっそりと孤独に自己沈潜する時間を生活の中に確保する必要がある」33頁
…私たちはどこかで「気ばらし」ばかり求めたり、すき間を埋めようとしたり、おなじ事だがスケジュールがつまっていることを自慢しているかもしれない。ああ、いそがしい、いそがしい。「神秘学」はともかく、どこで「ひっそりと孤独に自己沈潜する時間」をたもっているのか。パチンコ屋でそうしているのか。それもありかもしれない。パチンコは、どこかで精神の崩壊を食い止める作用があるのかもしれない。私の好きな漫画家の蛭子能収氏は、「パチンコに熱中しているときに喧噪の中で孤独を味わう」という意味合いのことを話していた。私は賭博者の魔性のようなものを追求できたら、ギャンブルはけっしてただの道楽や無為ではないと思う。別にドストエフスキーを持ち出すまでもなく、ひとはいいことばかりで学ぶのではないし、悪いことで失うだけではない。むしろ喪失や挫折を経験することが、それなりの知恵につながるはずだ。無論「超感覚」からは程遠いが。そして現在のパチンコはもっと「巨大な悪」に絡め取られていると思う。くり返すが、テレビでパチンコのCMを流すのは消費者金融の代替でしかないし、業界が深刻な問題を露呈しない限りは流れがやむこともないだろう。私は得体の知れない「巨大な悪」の尻馬に乗っかるだけの無責任な言動野郎が大嫌いだが、個々のパチンコ好きは嫌いではない。
ほんとうは日記を書くのがいちばんだと思う。それがもっともささやかで、「ひそかな自己沈潜」だ。それに慣れると、書くことと瞑想はよく似ているのだと思えるようになる。そのときあらゆる日常の営為や稼業は、共感作用を高める機会になるのだろう。散歩はただ「健康のため」でなく、自然と共感するためにあるのだと思えるだろうし、ヨガは「自分の身体を小宇宙と見なす」というレベルでもまあまあなのだろうが、さらに追求する意欲があるのなら、瞑想のヒントにするために文献を読むだけでなく、あらゆる芸術作品やポップカルチャーに注目してみることだ。現在に眼を向けなくなった修行者は、どこかしらが怠惰になっているように思う。ひとりヨガり。
私たちは少し過激な表現を求めている。凡百のヨガ指導者や宗教家の言葉で満足できない。そこにはめったに創造性が感じられないからだ。感性の風穴をあけるような、鋭いトゲが感じられないからだ。だから今でも、「福音書」は圧倒的に刺激的だ。「剣を」われらに。
いくぶんかの現実逃避(宗教活動のような)と、いくぶんかのリラクゼーション装置(同列にはできないが、ヨガやパチンコのような)に翻弄されるとき、私たちはそれが「自己沈潜」のように考え違いしてしまうのではないか。ほんとうは「考える時間」が大切なのではないか。ラスコーリニコフは「考える人」だった。
午前。祖父母にいただいたモーリス・センダック(?)の『世界名作絵本』ビデオ見。キャロル・キングの英語歌。「I don't care(ボク知らない)」というピエールのセリフはすっかりおぼえたらしく、わんたろうが「あいどんけ、あいどんけ」を連発する。私は幼児期の英語教育にまったく関心もないし、まず日本語を熟達することが大事だとかいうことに格別の共感もないが、映画やビデオの原作が英語で、日本語吹き替えがお粗末なら英語のまま観たほうがいいと思う。特にキャロル・キングのような才能ある歌い手なら、吹き替えが劣るのは明らかだ。そこには教育の要素などない。英語なんてヘタな教師から習うより、ビートルズやストーンズやオーティスでおぼえたほうがいいに決まっている。問題は絵本や原作が古いか新しいか、外国語か母国語かにあるのではなく、作品がおもしろいかどうかにかかっているだけだ。だからまだ「名作」とまで評価が高まっていないにしても、『ぜんまいざむらい』や飯野和好の『ねぎぼうすのあさたろう』やスズキコージの諸作品が大好きな親がいれば、おもしろがって子どもに見せればいい。自分はちっともおもしろがっていないのに、「これは名作だから、まちがいない」というだけの理由で子どもに絵本を読み聞かせるなら、それは勉強のしすぎで内実は怠惰と変わらない。何度もなんどもモーツァルトやベートーヴェンを聴くことが絶対に優れた知育だと思いこむのではなく、忌野清志郎やユッスー・ンドゥールやヌスラット・ファテ・アリ・ハーンや民俗音楽なんかも聴かせればいい。
外出。「交通公園」へ。「わんくんがんばる」というので自転車練習に励んでみたが、足の力がペダルに伝わらない。手を離すとどうしても止まってしまう。100回挫折しても101回目に成功すればいいじゃないか、なんちゅう、わかったようなわからないことをつぶやきながら、本人が嫌気ささない程度で練習。雨予報のせいか、昼頃ほとんどひと気が消えた。帰る気になった頃に、いつか児童館で会ったウリ坊と再会して「延長モード」に突入。若いお母さんから「小浜ラーメンはうまい」という情報を得て、私は「託児付ヨガスタジオ」の情報を提供した。青梅街道は今、梅雨どきなのさ。
夕方。中沢新一『緑の資本論』少読。ひとやすみのち、甥っ子の誕生日贈答品買いついでに、本屋で『まんがで読む「蟹工船」』立ち読み。水木しげる本も購入。
宵。「ねこまんのたっきゅみんさん」が、「LOVE JETS」のCDを届けてくれた。ありがとう、ねこまんのたっきゅみんさん。
2009年07月12日
2009年07月11日
酒っツミ(suck it to me)。09.7.2。
7/2(木)。雨あめふれふれかあさんが、パートで小銭を稼いでる。ほらほらあの子はみなしごか、不気味にイヒヒと笑ってる。ぴちぴち、ちゃぷちゃぷ、RUN、爛々。
毎日雨。腐りかけた死体が臭う。蛆がわく。前夜。『千と千尋』の感想乱れ書きはなにもそこまでがんばらなくてもいいが、異常者の「使命感」というべきか、私はひたすら書いた。(読者は4人だった。)
夜半。近頃の ‘不定愁訴’ 都会人はロクでもないヤツが多いだろう、とかなんとか。ともかく、そういうのはネットでずいぶん見た。いろいろ学ぶことができた。たとえばヨガなんて、どこかしら道楽みたいなものだ。私たちはいつでも自分のことしか悩んでいないか、誉められたくてうずうずしてるだけだ。「テメエのはらわたが腐ってる」とは赤ひげのセリフだが、いちいち精神科に行くんじゃねぇや。デリケートだと思われたくて仮病のつもりが、そのうちホントの不調を招くだけだ。自分で治せよ、壮年者。たまには酒でも飲んだらどうか。
翌。「とうちゃん酒臭い」と嫁。ううむ。次第に堕落するのをなんとするか、そういうつもりでもないがシュタイナー読。
「彼はそれまでと同じように義務を遂行し、以前と変りなく稼業に励む。変化は外なる眼の及ばぬ魂の内側でのみ進行する。まずはじめは人間の心情生活全体に、尊敬するに値するすべてのものへの畏敬、という基本的な気分が照り輝く。このただ一つの基礎感情が魂の生活全体の中心点になる。……畏敬の念が神秘学徒の魂のいとなみ全体に生気を与えるのである。」(『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するのか』31頁、高橋巌訳)
…「尊敬するに値するすべてのもの」とは、ペテン師を含まないことはいうまでもないが、反対にわが家のニャンタロウなんかは実に性質のいいネコであり、いちいち自慢したり酒を飲んだりひそかに淫欲に耽ったりすることもない。にゃあにゃあいうだけだ。「とうちゃん遊んでくれ」と引っかくだけだ。そんじょそこらの人間よりはるかに尊敬に値する。
あるいはまた、私は「知識人筋」はあまり好きではないが、忌野清志郎などを憧憬し、畏敬しているばかりでなく、常日頃から「布教活動」に努めてきた。かくのごとき私は、実にもって「神秘学徒」というか、「超感覚的世界」にふさわしいのではないだろうか。そうでもないのか。「このエロジジイ、人の悪口ばかり書きやがって」。
オレは奈女久地には負けない。
シウマイの皮、と昆布めし。わんたろうは少食で、プリンと海苔。中途半端な時間にサッポロ一番塩ラーメン。
『大怪獣バトル』シリーズ1、最終回見。
ゼットンとキングジョーが登場して、20年前に伝説のアマチュアバンド、レッドスネイクカモンがうたったブルースを想い出した。「キングジョー、すべてをぶちこわしてくれ、やっちまえジョー、ぶっこわせジョー、なんならゼットンと、手を組んでもいいぜ」。この歌手はなかなかおもしろい歌詞を書く男で、「なんならバカボンのパパと、手を組んでもいいぜ」なんちゅうこともうたっていた。価値観の転換をはかろうとしていたのだろうか。おおむね悪を表出しようとしていた。彼は今どこにいるのだろう。だれからも相手にされないのだろうか。
雨のため、近隣の児童館に行こうとした直前にわんたろうが『トイ・ストーリー』のビデオを見たいと主張するので、まあそれもありかと思ったからには、自宅にとどまって掃除などしながら清志郎の『グルーヴィン・タイム』を聴く。
♪
正直者はバカをみる そうさ、いつでも泣きをみる
俺は何も見たくない はるか彼方を見てるだけ
(「不真面目にいこう」)
…ぎゃあてぇ、ぎゃあてぇ。
ふつうのロック歌手なら「正直者」レベルで「泣きをみる」だけだ。私たちは「不真面目」だから、「テキトーでいい」とか、「オーヨソでいい」という見当がつけられるだろうか。「何も見たくない」から、高みから見下ろしたり、虚言癖がやまないおとなもいる。まともな感覚があるなら、刑事犯罪はそういうものだとしか見なさない。「はるか彼方」を見るならば。
午後。楽しい託児付ヨガへ。堪能。偉そうにするだれもいない。これはダメだとかスタイルがちがうとか、うるさいことをいう指導者もいない。ご老人のいないヨガは、健康を目指しているとすらいえない。「海パンヨガ」なんかは、そういうところを見直してみればいいのに。
西友屋上から玩具店で遊戯。しかし、わんたろうは遊び足りないだろう。夕方、録画した椎名林檎と松尾スズキの特番見ながらダラダラ保育。
松尾氏曰く、「(椎名の新作に)悪を感じる」とのことで、「うれしいです」と椎名が答えていた。あいまあいまに、『忌野清志郎 1951-2009』(ロッキングオン・ジャパン特別号)読了。
嫁が帰宅して、「LOVE JETSっていうのをアマゾンで検索してくれ」、「自分でやればいいじゃん」、「いや、今わんたろうと遊んでいるから手が離せない、ことによると廃盤で入手困難かもしれないから調べてくれ」、「たいして遊んであげてないクセに、……LOVE JETSあったよ」、「高いのか? 新譜であるのか?」、「うるさいなぁ、新譜だよ」、「買おう」。
宵。連日マイルスの『ビッグ・ファン』聴きながら筆記。
毎日雨。腐りかけた死体が臭う。蛆がわく。前夜。『千と千尋』の感想乱れ書きはなにもそこまでがんばらなくてもいいが、異常者の「使命感」というべきか、私はひたすら書いた。(読者は4人だった。)
夜半。近頃の ‘不定愁訴’ 都会人はロクでもないヤツが多いだろう、とかなんとか。ともかく、そういうのはネットでずいぶん見た。いろいろ学ぶことができた。たとえばヨガなんて、どこかしら道楽みたいなものだ。私たちはいつでも自分のことしか悩んでいないか、誉められたくてうずうずしてるだけだ。「テメエのはらわたが腐ってる」とは赤ひげのセリフだが、いちいち精神科に行くんじゃねぇや。デリケートだと思われたくて仮病のつもりが、そのうちホントの不調を招くだけだ。自分で治せよ、壮年者。たまには酒でも飲んだらどうか。
翌。「とうちゃん酒臭い」と嫁。ううむ。次第に堕落するのをなんとするか、そういうつもりでもないがシュタイナー読。
「彼はそれまでと同じように義務を遂行し、以前と変りなく稼業に励む。変化は外なる眼の及ばぬ魂の内側でのみ進行する。まずはじめは人間の心情生活全体に、尊敬するに値するすべてのものへの畏敬、という基本的な気分が照り輝く。このただ一つの基礎感情が魂の生活全体の中心点になる。……畏敬の念が神秘学徒の魂のいとなみ全体に生気を与えるのである。」(『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するのか』31頁、高橋巌訳)
…「尊敬するに値するすべてのもの」とは、ペテン師を含まないことはいうまでもないが、反対にわが家のニャンタロウなんかは実に性質のいいネコであり、いちいち自慢したり酒を飲んだりひそかに淫欲に耽ったりすることもない。にゃあにゃあいうだけだ。「とうちゃん遊んでくれ」と引っかくだけだ。そんじょそこらの人間よりはるかに尊敬に値する。
あるいはまた、私は「知識人筋」はあまり好きではないが、忌野清志郎などを憧憬し、畏敬しているばかりでなく、常日頃から「布教活動」に努めてきた。かくのごとき私は、実にもって「神秘学徒」というか、「超感覚的世界」にふさわしいのではないだろうか。そうでもないのか。「このエロジジイ、人の悪口ばかり書きやがって」。
オレは奈女久地には負けない。
シウマイの皮、と昆布めし。わんたろうは少食で、プリンと海苔。中途半端な時間にサッポロ一番塩ラーメン。
『大怪獣バトル』シリーズ1、最終回見。
ゼットンとキングジョーが登場して、20年前に伝説のアマチュアバンド、レッドスネイクカモンがうたったブルースを想い出した。「キングジョー、すべてをぶちこわしてくれ、やっちまえジョー、ぶっこわせジョー、なんならゼットンと、手を組んでもいいぜ」。この歌手はなかなかおもしろい歌詞を書く男で、「なんならバカボンのパパと、手を組んでもいいぜ」なんちゅうこともうたっていた。価値観の転換をはかろうとしていたのだろうか。おおむね悪を表出しようとしていた。彼は今どこにいるのだろう。だれからも相手にされないのだろうか。
雨のため、近隣の児童館に行こうとした直前にわんたろうが『トイ・ストーリー』のビデオを見たいと主張するので、まあそれもありかと思ったからには、自宅にとどまって掃除などしながら清志郎の『グルーヴィン・タイム』を聴く。
♪
正直者はバカをみる そうさ、いつでも泣きをみる
俺は何も見たくない はるか彼方を見てるだけ
(「不真面目にいこう」)
…ぎゃあてぇ、ぎゃあてぇ。
ふつうのロック歌手なら「正直者」レベルで「泣きをみる」だけだ。私たちは「不真面目」だから、「テキトーでいい」とか、「オーヨソでいい」という見当がつけられるだろうか。「何も見たくない」から、高みから見下ろしたり、虚言癖がやまないおとなもいる。まともな感覚があるなら、刑事犯罪はそういうものだとしか見なさない。「はるか彼方」を見るならば。
午後。楽しい託児付ヨガへ。堪能。偉そうにするだれもいない。これはダメだとかスタイルがちがうとか、うるさいことをいう指導者もいない。ご老人のいないヨガは、健康を目指しているとすらいえない。「海パンヨガ」なんかは、そういうところを見直してみればいいのに。
西友屋上から玩具店で遊戯。しかし、わんたろうは遊び足りないだろう。夕方、録画した椎名林檎と松尾スズキの特番見ながらダラダラ保育。
松尾氏曰く、「(椎名の新作に)悪を感じる」とのことで、「うれしいです」と椎名が答えていた。あいまあいまに、『忌野清志郎 1951-2009』(ロッキングオン・ジャパン特別号)読了。
嫁が帰宅して、「LOVE JETSっていうのをアマゾンで検索してくれ」、「自分でやればいいじゃん」、「いや、今わんたろうと遊んでいるから手が離せない、ことによると廃盤で入手困難かもしれないから調べてくれ」、「たいして遊んであげてないクセに、……LOVE JETSあったよ」、「高いのか? 新譜であるのか?」、「うるさいなぁ、新譜だよ」、「買おう」。
宵。連日マイルスの『ビッグ・ファン』聴きながら筆記。
2009年07月10日
オレはとうとうブログ野郎になってしまった。09.6.30-7.1。
6/30(火)。前夜。母子不在のため、映画感想文だらだら筆記。読者は3人いれば上等だ。夜半に雨の中、豚脂ラーメン喰いに。中原中也はなぜかラーメンの友。
ひょっとしたなら昔から
おれの手に負へたのはこの怠惰だけだつたかもしれぬ
真面目な希望も その怠惰の中から
憧憬したのにすぎなかつたかもしれぬ
ああ それにしてもそれにしても
ゆめみるだけの 男にならうとはおもはなかつた!
(憔悴、「山羊の歌」より)
同じ箇所ばかり読んでいる。わんたろうがいないと生きている気がしない。乱文書いて送信して、それでおしまい。怠惰。夢みるだけ。帰宅したら、ネコがにゃあにゃあ鳴いていた。寝床で二十年ぶりにつげ義春『無能の人』。「おれはとうとう石屋になってしまった」、「ほかにどうするアテもなかったのだ」(第一話「石を売る」)。…オレはとうとうブログ野郎になってしまった。他にどうするアテもなかったのだ。…このブログ稼業だってまるでシロウトだ。本を読んでちょっと知識を仕入れてはデタラメを書くだけなのだ。ただ元手がかからないということが、オレに向いていたのかもしれない。(盗用)
翌。だらだら朝寝。シュタイナー少読。「どんな人間の中にも、感覚的世界を超えて、より高次の諸世界にまで認識を拡げることのできる能力が微睡んでいる」、「そしてそのための指針を与えることができるのは、すでにその能力を身につけた人だけに限られる」21頁。(『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』高橋巌訳、ちくま学芸文庫)
夜中に豚骨ラーメン喰うヤツがどうこういうことではないが、ステテコ・ヨガにはその能力をもつ指導者はいるのだろうか。いずれにしてもぴょんぴょん跳んでいるだけでは「超感覚的」にはなれないのだから、それが行法の主体になってはならない、ということを夢みがちの私は主張してきた。真っ暗だったりブラインドネスに近い状態なら、「現代人らしからぬ感覚」ぐらいは磨けるはずだ。ジャンプしたり逆立ちがうまくなりたいのか、それとも時空を超えたいのか、アホだと思われてもいいからそうしたいのか、なぜそうしたいのか、時代がウルトラマンを必要としているからだ、もはや一刻の猶予もならないと誇大妄想がやまないからだ。健康や長寿が目標ではない。中原中也は30才で死んでいる。私たちは十分長生きだし、今が余生だと思うならもっとちがう目標を持てるはずだ。しゅわっち。
♪
勘違いにまたがって、そんなに気持ちいいのかい?
ボクは下りるよ、おつかれさん いつまでもお元気で、バイバイ
(「僕は僕のために」RCサクセション、表記は引用者)
子供用の中古ビデオ買って、西友屋上で読書。江川卓のラスコーリニコフ解読本。午後からママさんヨガ。だれかは3人目をみごもったらしい。ことぶき。タフな母親は息抜きもうまいし、子育てを楽しんでいる。どこぞのブログ野郎とはちがう。夕方、タイラーメンと冷や奴食。ごろごろしながら、児童書「ガンジー伝記」読了。ヒンズー教徒とイスラム教徒の争いは、その後どうなっているのか。
7.1(水)。前夜。母子迎えのため青梅街道へ向かうとき、近道のつもりでパチンコ店に侵入してみた。ほとんど爆音にちかい大音量が響いていて、ほぼ満席だった。ギャンブルは勝たなければ意味がない。何度もいうが、少なくとも簡単な損益表を作成してみることだ。「○月○日、○時〜○時、+5千円」とか。常時やりながら勝っているひともまれにはいるのだろうが、平均すれば「月間マイナス5万円」くらいではないか。ストレス解消の費用が月額ウン万円だったら安いというのか。私はギャンブルを否定しないが、現況のパチンコには創造性を見出すことができない。うつ病を抑制しているのだとしたら、それはそれでありなのかもしれないが、最低限勝つことだ。そして勝っていたとしても、月額プラス5万円で、遊興時間が1日平均5時間以上だとしたら、「たいしてプラスにならないことに人生の貴重な時間を相当費やしている」ということに気づくのではないか。ヒマつぶしのために生まれてきたんじゃない。けれど魔性を探求するなら、とことんやってみればいい。
帰宅して。バースデーケーキ囲んで団らん。「はっぴばーすでーつーゆー」、わんたろうはそれらしくうたう。ロウソク吹き消すのもわんたろうだが、肝心のケーキは食べない。生クリームを食わず嫌い。
うたげのち、筆記送信。独り寝はつげ漫画読。「父ちゃん迎えにきたよ」というセリフがせつない。
翌。シュタイナー読。
「…われわれは外面的な文明生活において得たもののために、それに相当する犠牲を高次の認識活動や霊的生活において支払わなければならなかった」
「誰かと出会い、その人の弱点を非難するとき、私は自分で自分の中の高次の認識能力を奪っている」
「あらゆる事柄の中の優れた部分に注意を向けること、そして批判的な判断をひかえること」(『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』28-29頁)
…私は自分が凡庸であることは重々承知しているつもりだが、どこかで人の上に立つニセモノたちを批判することは、より多くの愚直なだれかを救うことになるのだと思いこんでいるのだろう。あるいはなにかを得る過程で、それに相当するなにかを犠牲にしたことを偏執的に書きたいだけだ。私たちが喪失したのは、「高次の認識活動や霊的生活」だけではない。もっとそれ以前に取り戻すものがあるはずだ。
(とうちゃん、むかえにきたよ)
とりあえず、めしを喰う。わんたろうはシウマイの肉を、父は皮を分け合う。舌平目のムニエルというのは、少年時代に『世界の料理ショー』で見たことはあるが、味見したのははじめてだ。(昼もほぼ同じ、プラスわかめのみそ汁。)
「午後雨」の予報のため、外出せずだらだら保育。児童館に行きそびれたが、わんたろうも要求しない。昨日買った安価中古ビデオ『千と千尋の神隠し』上映会。きれぎれ鑑賞。
産経新聞に「ネトゲ廃人」なる記事、興趣。毎日数時間ネットゲームに熱中した挙げ句、退学や退職したりする人が増えているのだと。パチンコに似た中毒症状なのだろう。いいか悪いかは別として、「ディスコミュニケーション」が根底にある。「チャット」というのか、そういう言葉のやりとりでどれほど本心を伝え合うことができるのか。議論の訓練にはなるだろうが、ほとんど議論にまで発展しない。だれもが『千と千尋』の「カオナシ」状態で書き散らかしているか、一方の意見に偏りすぎている。ミクシイはそういう感じになる。
「誰かと出会い、その人の弱点を非難するとき、私は自分で自分の中の高次の認識能力を奪っている」ということを踏まえて、それでもさらに突き進んでみようという度胸まであるのかどうか。
夕方。嫁と合流してユニクロでズボンを買ってもらう。さらに屋上遊戯のあいだ、雑読しながら居眠り。常時夢幻。トンネルを抜けたら、そこは異界、…だったらいいのに。
(とうちゃん、むかえにきたよ)
(もう読者はいないよ、ぼくとあそぼうよ)
(世界と断絶しても、ぼくはとうちゃんのともだちだよ)
(わざわざ嫌われるようなことばかり書かなくてもいいだろう、ねぇとうちゃん、ねぇとうちゃん、)
ひょっとしたなら昔から
おれの手に負へたのはこの怠惰だけだつたかもしれぬ
真面目な希望も その怠惰の中から
憧憬したのにすぎなかつたかもしれぬ
ああ それにしてもそれにしても
ゆめみるだけの 男にならうとはおもはなかつた!
(憔悴、「山羊の歌」より)
同じ箇所ばかり読んでいる。わんたろうがいないと生きている気がしない。乱文書いて送信して、それでおしまい。怠惰。夢みるだけ。帰宅したら、ネコがにゃあにゃあ鳴いていた。寝床で二十年ぶりにつげ義春『無能の人』。「おれはとうとう石屋になってしまった」、「ほかにどうするアテもなかったのだ」(第一話「石を売る」)。…オレはとうとうブログ野郎になってしまった。他にどうするアテもなかったのだ。…このブログ稼業だってまるでシロウトだ。本を読んでちょっと知識を仕入れてはデタラメを書くだけなのだ。ただ元手がかからないということが、オレに向いていたのかもしれない。(盗用)
翌。だらだら朝寝。シュタイナー少読。「どんな人間の中にも、感覚的世界を超えて、より高次の諸世界にまで認識を拡げることのできる能力が微睡んでいる」、「そしてそのための指針を与えることができるのは、すでにその能力を身につけた人だけに限られる」21頁。(『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』高橋巌訳、ちくま学芸文庫)
夜中に豚骨ラーメン喰うヤツがどうこういうことではないが、ステテコ・ヨガにはその能力をもつ指導者はいるのだろうか。いずれにしてもぴょんぴょん跳んでいるだけでは「超感覚的」にはなれないのだから、それが行法の主体になってはならない、ということを夢みがちの私は主張してきた。真っ暗だったりブラインドネスに近い状態なら、「現代人らしからぬ感覚」ぐらいは磨けるはずだ。ジャンプしたり逆立ちがうまくなりたいのか、それとも時空を超えたいのか、アホだと思われてもいいからそうしたいのか、なぜそうしたいのか、時代がウルトラマンを必要としているからだ、もはや一刻の猶予もならないと誇大妄想がやまないからだ。健康や長寿が目標ではない。中原中也は30才で死んでいる。私たちは十分長生きだし、今が余生だと思うならもっとちがう目標を持てるはずだ。しゅわっち。
♪
勘違いにまたがって、そんなに気持ちいいのかい?
ボクは下りるよ、おつかれさん いつまでもお元気で、バイバイ
(「僕は僕のために」RCサクセション、表記は引用者)
子供用の中古ビデオ買って、西友屋上で読書。江川卓のラスコーリニコフ解読本。午後からママさんヨガ。だれかは3人目をみごもったらしい。ことぶき。タフな母親は息抜きもうまいし、子育てを楽しんでいる。どこぞのブログ野郎とはちがう。夕方、タイラーメンと冷や奴食。ごろごろしながら、児童書「ガンジー伝記」読了。ヒンズー教徒とイスラム教徒の争いは、その後どうなっているのか。
7.1(水)。前夜。母子迎えのため青梅街道へ向かうとき、近道のつもりでパチンコ店に侵入してみた。ほとんど爆音にちかい大音量が響いていて、ほぼ満席だった。ギャンブルは勝たなければ意味がない。何度もいうが、少なくとも簡単な損益表を作成してみることだ。「○月○日、○時〜○時、+5千円」とか。常時やりながら勝っているひともまれにはいるのだろうが、平均すれば「月間マイナス5万円」くらいではないか。ストレス解消の費用が月額ウン万円だったら安いというのか。私はギャンブルを否定しないが、現況のパチンコには創造性を見出すことができない。うつ病を抑制しているのだとしたら、それはそれでありなのかもしれないが、最低限勝つことだ。そして勝っていたとしても、月額プラス5万円で、遊興時間が1日平均5時間以上だとしたら、「たいしてプラスにならないことに人生の貴重な時間を相当費やしている」ということに気づくのではないか。ヒマつぶしのために生まれてきたんじゃない。けれど魔性を探求するなら、とことんやってみればいい。
帰宅して。バースデーケーキ囲んで団らん。「はっぴばーすでーつーゆー」、わんたろうはそれらしくうたう。ロウソク吹き消すのもわんたろうだが、肝心のケーキは食べない。生クリームを食わず嫌い。
うたげのち、筆記送信。独り寝はつげ漫画読。「父ちゃん迎えにきたよ」というセリフがせつない。
翌。シュタイナー読。
「…われわれは外面的な文明生活において得たもののために、それに相当する犠牲を高次の認識活動や霊的生活において支払わなければならなかった」
「誰かと出会い、その人の弱点を非難するとき、私は自分で自分の中の高次の認識能力を奪っている」
「あらゆる事柄の中の優れた部分に注意を向けること、そして批判的な判断をひかえること」(『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』28-29頁)
…私は自分が凡庸であることは重々承知しているつもりだが、どこかで人の上に立つニセモノたちを批判することは、より多くの愚直なだれかを救うことになるのだと思いこんでいるのだろう。あるいはなにかを得る過程で、それに相当するなにかを犠牲にしたことを偏執的に書きたいだけだ。私たちが喪失したのは、「高次の認識活動や霊的生活」だけではない。もっとそれ以前に取り戻すものがあるはずだ。
(とうちゃん、むかえにきたよ)
とりあえず、めしを喰う。わんたろうはシウマイの肉を、父は皮を分け合う。舌平目のムニエルというのは、少年時代に『世界の料理ショー』で見たことはあるが、味見したのははじめてだ。(昼もほぼ同じ、プラスわかめのみそ汁。)
「午後雨」の予報のため、外出せずだらだら保育。児童館に行きそびれたが、わんたろうも要求しない。昨日買った安価中古ビデオ『千と千尋の神隠し』上映会。きれぎれ鑑賞。
産経新聞に「ネトゲ廃人」なる記事、興趣。毎日数時間ネットゲームに熱中した挙げ句、退学や退職したりする人が増えているのだと。パチンコに似た中毒症状なのだろう。いいか悪いかは別として、「ディスコミュニケーション」が根底にある。「チャット」というのか、そういう言葉のやりとりでどれほど本心を伝え合うことができるのか。議論の訓練にはなるだろうが、ほとんど議論にまで発展しない。だれもが『千と千尋』の「カオナシ」状態で書き散らかしているか、一方の意見に偏りすぎている。ミクシイはそういう感じになる。
「誰かと出会い、その人の弱点を非難するとき、私は自分で自分の中の高次の認識能力を奪っている」ということを踏まえて、それでもさらに突き進んでみようという度胸まであるのかどうか。
夕方。嫁と合流してユニクロでズボンを買ってもらう。さらに屋上遊戯のあいだ、雑読しながら居眠り。常時夢幻。トンネルを抜けたら、そこは異界、…だったらいいのに。
(とうちゃん、むかえにきたよ)
(もう読者はいないよ、ぼくとあそぼうよ)
(世界と断絶しても、ぼくはとうちゃんのともだちだよ)
(わざわざ嫌われるようなことばかり書かなくてもいいだろう、ねぇとうちゃん、ねぇとうちゃん、)
2009年07月09日
メクラ千人、××メクラ大量発生。09.6.29。
6/29(月)。前夜、母子不在のため久しぶりに行法。つげ本はエロチック。
翌、だらだら朝寝。シュタイナー読みはじめ。残り飯と残りラーメン食。格別うまいものが喰いたいわけでもない。DVD『ブラインドネス』途中まで見て、午後からヨガクラスへ。「99イチバ」で200円のコロッケ弁当買って昼食。映画の続き見。略奪もレイプも殺人もありうることだ。
「火事が起こり、飢饉がはじまった。人も物ものこらず亡びてしまった。疫病は成長し、ますますひろがっていった。全世界でこの災厄を逃れることができたのは、わずか数人の人々だった。それは新しい人種と新しい生活を創り、地上を更新し浄化する使命をおびた純粋な選ばれた人々だったが、誰もどこにもそれらの人々を見たことがなかったし、誰もそれらの人々の声や言葉を聞いた者はなかった。」(『罪と罰』工藤精一郎訳、新潮文庫)
…ラスコーリニコフは獄中で熱にうかされてこんな悪夢を見る。映画も同じだ。私たちは悪夢のような映画を見ては、ここの設定は無理があるとか、登場人物に感情移入できないとか文句をつけたがるが、「ブラインドネス(盲目)」であるというひとときを仮想させてくれるだけで、この映画に一級の価値があるはずだ。もし、ゲリー・ボーネルの『光の十二日』と結びつけてみたければ、そうすればいい。だれかが欲望を剥き出しにしたり、だれかが絶望のどん底で犬死にしたり、だれかがそれでも希望を見出そうとして苛酷な試練に立ち向かうこともあるのだろう。
翌、だらだら朝寝。シュタイナー読みはじめ。残り飯と残りラーメン食。格別うまいものが喰いたいわけでもない。DVD『ブラインドネス』途中まで見て、午後からヨガクラスへ。「99イチバ」で200円のコロッケ弁当買って昼食。映画の続き見。略奪もレイプも殺人もありうることだ。
「火事が起こり、飢饉がはじまった。人も物ものこらず亡びてしまった。疫病は成長し、ますますひろがっていった。全世界でこの災厄を逃れることができたのは、わずか数人の人々だった。それは新しい人種と新しい生活を創り、地上を更新し浄化する使命をおびた純粋な選ばれた人々だったが、誰もどこにもそれらの人々を見たことがなかったし、誰もそれらの人々の声や言葉を聞いた者はなかった。」(『罪と罰』工藤精一郎訳、新潮文庫)
…ラスコーリニコフは獄中で熱にうかされてこんな悪夢を見る。映画も同じだ。私たちは悪夢のような映画を見ては、ここの設定は無理があるとか、登場人物に感情移入できないとか文句をつけたがるが、「ブラインドネス(盲目)」であるというひとときを仮想させてくれるだけで、この映画に一級の価値があるはずだ。もし、ゲリー・ボーネルの『光の十二日』と結びつけてみたければ、そうすればいい。だれかが欲望を剥き出しにしたり、だれかが絶望のどん底で犬死にしたり、だれかがそれでも希望を見出そうとして苛酷な試練に立ち向かうこともあるのだろう。
2009年07月07日
しまじろう一家の作り笑いがわらう、不気味に。09.6.27-28。
♪
聞こえない歌を繰り返し聞かされる
薄っぺらい希望に俺たちは躍らされる
ミリオンセラーの彼女の作り笑いが笑う
(「世の中が悪くなっていく」作詞・作曲:忌野清志郎)
6/27(土)。「ねこまんのたっきゅみんさん」。わんたろうが路上で何度かそういうので、指さす方向を見ると「クロネコヤマトの宅急便」の車両がとまっている。「ああそうか、ねこまんのたっきゅみんさんって、そういう意味なんだ」、「うん、ねこまんのたっきゅみんさん、かっくいいね」、「へえーそうかい、じゃあ今度かっこいいって言ってあげると喜ぶよ」。
前夜。「いい年こいてディズニーランドに行きたがるオッサン」というのは追悼としては不適だが含みがある。そもそもマスコミ批判だ。
翌。眠気やまず。炊き込み飯はわんたろう喰わず。ダラダラ保育で録画した『ドラえもん特番』見せるも、興味は続かない。とうちゃんと同じかどうか知らないが、なんでのび太に「お世話ロボット」が必要か。そもそも『ドラえもん』の最大の特徴は、「父母のかげが薄い」ことに尽きる。だから子どもがのび太に自己投影してみるようなら、ふたおやは危機感を抱いておくほうがいい。ドラえもんは母性を喪失したのび太や子ども達の空想の産物だ。小学生である「しずかちゃん」が「のび太さん」という敬称を使うのも不自然だ。徹底していじめられた果てに逆襲してみればいいのに、のび太はいつでも「仮想母」であるドラえもんやしずかちゃんに見守られているだけだ。
♪
母親に見捨てられた まるでそんな感じ
いったい何が起こってる 大人たちは真っ青さ
(「世の中が悪くなっていく」)
体操クラブのあと、「ジャブジャブ池」のある井草の森公園へ行くつもりだったが、「光化学スモッグ注意報が発令されました」という、たぶん消防署のアナウンスがあって、「わんたろう、光化学スモッグだってさ、しばらく家にいようか」というと、「おうかくもうす? いくよいくよ」、「いやそうじゃなくて、光化学スモッグだから行かないほうがいいんだ」、「おうかくもうす、いってみゅか」。…うーむ。こうなったら、行くしかないべ。
炎天下自転車移動。けれど井草の森公園は木陰が多いので、着いてしまえば光化学スモッグを気にすることもない。で、わんたろうは人口水流で岩登りしたりしてワイルドに遊ぶ。父はもう少し軽装で来ればよかったと思うが、どうにかついてまわって、「ファイト一発!」。近頃リコーGRは不調で、ここぞといういい瞬間が撮れない。
遊具では、わんたろうが果敢に近隣の小学6年生グループにからむ。彼らは優しいが、わんたろうはほとんど相手にならないのにかまわず「ガオガオ」叫びながら突進している。まったく人見知りしない。無視されてもてんでめげない。すごいパワーだ。
一方で、大したことないのにぎゃあぎゃあ泣きわめいて被害者ヅラする幼女もいる。私はめんどくさいから、「ごめんごめん」といいながら、わんたろうに謝ることを強制するでもなく、「こんなの大したことないよ、だいたいキミたちが先にわんたろうを排除しようとしたり、つまらない理屈をこねてはわんたろうを詰ったりしただろう、それでいてちょっとつかみ合いになると堪え性もなく泣きわめくだろう、そういうキミたちやキミたちの親のあり方をあらためたほうがいいんだよ」と、心の中で思っていたが言うはずもない。もうすでに親の屁理屈に影響されているから、即時に飲み込ませることなどできない。
夕方、帰路。路上の花はノウゼンカズラ、ギボウシ、サルスベリ。井草湯はどうやら営業しているようだ。そばに巨大なソテツ。わんたろうは自転車の上で「吟遊詩人」のバゲットをかじりながら「さいこー、さいこー」とか、「うまい」とか叫んでいる。
帰宅したら、しまじろうの教材が届いていて、わんたろうがめざとく発見したため、引き続きしまじろうであそび。「いたいのいたいのとんでけー、だと。庭で転んだくらいでいちいち大騒ぎするな」とか、「なんだこんなくだらねぇこと書きやがって、スズキコージを見習え」とか、文句言いながら読み聞かせ。わんたろうはそれでもけっこう喜んでいる。「まいったなぁ」というくり返しは、きっととうちゃんの口癖なんだろう。
6/28(日)。前夜。疲労のため筆記不能。送信も修正不足のまま。矢野顕子のDVD見つつ晩酌。つげ本寝読。睡眠不良。
翌。寝起き悪し。わんたろうはすでにはしゃぎまわっているが、父はうつっぽいのが治らない。近頃熟睡できたことがない。ヤントラ・ヨーガの独習は不実行。とりあえず、テキストを手元如意とする。
テレビでは元気なタレントがやたらとデカイ声でしゃべっている。東国原知事は総理になりたいとか。誹謗中傷に負けるな、早くなっておくれ。あなたはだれより適役だ。
母子は今宵から里帰り(といっても練馬区)。しばしの別れ惜しみつつ、父は午後から神田で語学。終えてベローチェで予習。さらに『罪と罰』(工藤精一郎訳、新潮文庫)、とりあえず読了。しかし読解困難のため、駅近の「啓文堂書店」にて、『謎とき「罪と罰」』(江川卓著)購入。ラザロの復活はどういう意味合いなのか。「殺人者と娼婦」であるラスコーリニコフとソーニャの関係はふつうの恋愛とは程遠い。「ぼくたちは二人とも呪われた人間だ」95頁。
「しかし、彼は自分の罪に悔恨を感じなかった」474頁
「熱病の悪夢」から「新生活への更生」へ。〜483頁
…ある種のよみがえりの物語であることはまちがいない。「罪」人は刑罰によって改悛するのではなく、改悛したり考える時間をあたえられることがあるだけだ。そしてもし、地獄への恐れが改悛を促すのだとしたら、既存の宗教に取り込まれているだけだ。それがまぼろしでないといえるのか。ラスコーリニコフは「軽薄な希望などはぜんぜんもっていない」470頁
「薄っぺらい希望に俺たちは躍らされる」(忌野清志郎)
ラスコーリニコフはやわな反省をしているのではない。なにが「sin」でなにが「crime」なのか。私たちはどこがギルティで、どこがイノセントなのか。罰はどこにあるのか。だれが下すのか。今悲惨なだれかは、転生の果ての罰を受けているのだというなら、そういう宗教は下らないだけだと見なせばいい。私たちは各自の「課題を抱えている」かもしれないが、善をなしているときにそれが克服されるのではない。そもそも善が不明だ。善はたいてい口うるさいだけだ。
宵。オリンパスペンFTがふとしたことから見つかった。更生しようか。
聞こえない歌を繰り返し聞かされる
薄っぺらい希望に俺たちは躍らされる
ミリオンセラーの彼女の作り笑いが笑う
(「世の中が悪くなっていく」作詞・作曲:忌野清志郎)
6/27(土)。「ねこまんのたっきゅみんさん」。わんたろうが路上で何度かそういうので、指さす方向を見ると「クロネコヤマトの宅急便」の車両がとまっている。「ああそうか、ねこまんのたっきゅみんさんって、そういう意味なんだ」、「うん、ねこまんのたっきゅみんさん、かっくいいね」、「へえーそうかい、じゃあ今度かっこいいって言ってあげると喜ぶよ」。
前夜。「いい年こいてディズニーランドに行きたがるオッサン」というのは追悼としては不適だが含みがある。そもそもマスコミ批判だ。
翌。眠気やまず。炊き込み飯はわんたろう喰わず。ダラダラ保育で録画した『ドラえもん特番』見せるも、興味は続かない。とうちゃんと同じかどうか知らないが、なんでのび太に「お世話ロボット」が必要か。そもそも『ドラえもん』の最大の特徴は、「父母のかげが薄い」ことに尽きる。だから子どもがのび太に自己投影してみるようなら、ふたおやは危機感を抱いておくほうがいい。ドラえもんは母性を喪失したのび太や子ども達の空想の産物だ。小学生である「しずかちゃん」が「のび太さん」という敬称を使うのも不自然だ。徹底していじめられた果てに逆襲してみればいいのに、のび太はいつでも「仮想母」であるドラえもんやしずかちゃんに見守られているだけだ。
♪
母親に見捨てられた まるでそんな感じ
いったい何が起こってる 大人たちは真っ青さ
(「世の中が悪くなっていく」)
体操クラブのあと、「ジャブジャブ池」のある井草の森公園へ行くつもりだったが、「光化学スモッグ注意報が発令されました」という、たぶん消防署のアナウンスがあって、「わんたろう、光化学スモッグだってさ、しばらく家にいようか」というと、「おうかくもうす? いくよいくよ」、「いやそうじゃなくて、光化学スモッグだから行かないほうがいいんだ」、「おうかくもうす、いってみゅか」。…うーむ。こうなったら、行くしかないべ。
炎天下自転車移動。けれど井草の森公園は木陰が多いので、着いてしまえば光化学スモッグを気にすることもない。で、わんたろうは人口水流で岩登りしたりしてワイルドに遊ぶ。父はもう少し軽装で来ればよかったと思うが、どうにかついてまわって、「ファイト一発!」。近頃リコーGRは不調で、ここぞといういい瞬間が撮れない。
遊具では、わんたろうが果敢に近隣の小学6年生グループにからむ。彼らは優しいが、わんたろうはほとんど相手にならないのにかまわず「ガオガオ」叫びながら突進している。まったく人見知りしない。無視されてもてんでめげない。すごいパワーだ。
一方で、大したことないのにぎゃあぎゃあ泣きわめいて被害者ヅラする幼女もいる。私はめんどくさいから、「ごめんごめん」といいながら、わんたろうに謝ることを強制するでもなく、「こんなの大したことないよ、だいたいキミたちが先にわんたろうを排除しようとしたり、つまらない理屈をこねてはわんたろうを詰ったりしただろう、それでいてちょっとつかみ合いになると堪え性もなく泣きわめくだろう、そういうキミたちやキミたちの親のあり方をあらためたほうがいいんだよ」と、心の中で思っていたが言うはずもない。もうすでに親の屁理屈に影響されているから、即時に飲み込ませることなどできない。
夕方、帰路。路上の花はノウゼンカズラ、ギボウシ、サルスベリ。井草湯はどうやら営業しているようだ。そばに巨大なソテツ。わんたろうは自転車の上で「吟遊詩人」のバゲットをかじりながら「さいこー、さいこー」とか、「うまい」とか叫んでいる。
帰宅したら、しまじろうの教材が届いていて、わんたろうがめざとく発見したため、引き続きしまじろうであそび。「いたいのいたいのとんでけー、だと。庭で転んだくらいでいちいち大騒ぎするな」とか、「なんだこんなくだらねぇこと書きやがって、スズキコージを見習え」とか、文句言いながら読み聞かせ。わんたろうはそれでもけっこう喜んでいる。「まいったなぁ」というくり返しは、きっととうちゃんの口癖なんだろう。
6/28(日)。前夜。疲労のため筆記不能。送信も修正不足のまま。矢野顕子のDVD見つつ晩酌。つげ本寝読。睡眠不良。
翌。寝起き悪し。わんたろうはすでにはしゃぎまわっているが、父はうつっぽいのが治らない。近頃熟睡できたことがない。ヤントラ・ヨーガの独習は不実行。とりあえず、テキストを手元如意とする。
テレビでは元気なタレントがやたらとデカイ声でしゃべっている。東国原知事は総理になりたいとか。誹謗中傷に負けるな、早くなっておくれ。あなたはだれより適役だ。
母子は今宵から里帰り(といっても練馬区)。しばしの別れ惜しみつつ、父は午後から神田で語学。終えてベローチェで予習。さらに『罪と罰』(工藤精一郎訳、新潮文庫)、とりあえず読了。しかし読解困難のため、駅近の「啓文堂書店」にて、『謎とき「罪と罰」』(江川卓著)購入。ラザロの復活はどういう意味合いなのか。「殺人者と娼婦」であるラスコーリニコフとソーニャの関係はふつうの恋愛とは程遠い。「ぼくたちは二人とも呪われた人間だ」95頁。
「しかし、彼は自分の罪に悔恨を感じなかった」474頁
「熱病の悪夢」から「新生活への更生」へ。〜483頁
…ある種のよみがえりの物語であることはまちがいない。「罪」人は刑罰によって改悛するのではなく、改悛したり考える時間をあたえられることがあるだけだ。そしてもし、地獄への恐れが改悛を促すのだとしたら、既存の宗教に取り込まれているだけだ。それがまぼろしでないといえるのか。ラスコーリニコフは「軽薄な希望などはぜんぜんもっていない」470頁
「薄っぺらい希望に俺たちは躍らされる」(忌野清志郎)
ラスコーリニコフはやわな反省をしているのではない。なにが「sin」でなにが「crime」なのか。私たちはどこがギルティで、どこがイノセントなのか。罰はどこにあるのか。だれが下すのか。今悲惨なだれかは、転生の果ての罰を受けているのだというなら、そういう宗教は下らないだけだと見なせばいい。私たちは各自の「課題を抱えている」かもしれないが、善をなしているときにそれが克服されるのではない。そもそも善が不明だ。善はたいてい口うるさいだけだ。
宵。オリンパスペンFTがふとしたことから見つかった。更生しようか。
2009年07月04日
大衆の王様。09.6.25-26。
6/25(木)。前夜。「you tube」で矢野顕子が「きよしちゃん」なる歌曲を演奏している映像を、嫁が見せてくれた。「いい歌だね、きよしちゃん」みたいな歌詞だった。このふたりは精神的には夫婦に近いのかもしれない。以前にも書いたが、清志郎の「海辺のワインディング・ロード」を矢野顕子がピアノの弾き語りで演奏したのは最高によかった。一方、同じく「you tube」で見た矢野の「ひとつだけ」をうたう清志郎も最高だと思った。このふたりは互いの曲をカヴァーしても、歌曲に潜在する別の魅力を引き出すことができる。並みの力量の歌い手だと、歌曲の味わいは感情が一本調子になってしまうだけだ。どれほどリスペクトしていようが、コピーが原曲のニュアンスを拡大させたり逸脱することはない。たとえばゴスペラーズが「スロー・バラード」を歌うと、甘ったるくて感傷的な歌曲になってしまう。仲井戸麗市は大好きだが「いいことばかりはありゃしない」をやると、グチっぽくてどんよりしてしまう。まあ、そういう歌詞なんだが、清志郎が歌うと嘆き節のなかにも憤怒やペーソスや居直りや脱力感があって、聴いてる側が必要以上に落ち込むことはない。
凡庸な私たちがカラオケでうたっても、同様以下のニュアンスしか醸し出せない。感情はただひといろになってしまう。
翌。わんたろうは5時半に起きて過活動。嫁はときどき怒るらしく、それはそれでいいが、「私が怒るととうちゃんをたよって逃げていく、怒るたびに嫌われるだけだ」という意味合いのことを言っていたが、私はそれなりにオッサンであり、時代が時代ならわんたろうのジイサンだといってもおかしくないのであり、また私はどういうわけか昔から孫が欲しかったのだから、私のことをジイサンだと思えばいい、ということを心の中で思った。まあ、若年寄というか、私にはジジイ的資質があるのかもしれないし、そしてそれ以外になにもないのだろう。母親は怒りたければ豪快に怒ればいい。そのときジイサンが優しければ、子どもがグレることはあるまい。ジイサンは役目が済んだら死ぬだけだ。
朝飯はシウマイ。わんたろうはあまり喰わず。9時半。ダラダラ保育していたら、わんたろうはウルトラマンの人形を握りしめたまま眠ってしまった。しばし清志郎インタビュー読。
読んでいて記憶が甦ってきたが、私は1982年『ビート・ポップス』以降、1986年のライブ盤が出るあたりまでまったくRCを聴いていなかったどころか、ロックそのものをあまり聴かなくなっていたのだ。ジャズばかり聴いていた。たぶんテンションのかかり方がものたらなくなっていたのだろう。それで、記憶上では『ビート・ポップス』のあとがいきなり1990年の『Baby a Go Go』に飛んでいる。
しかし、ロックに戻ってみると、エリック・ドルフィーと清志郎はけっこう似ているような気がしたり、コードが単純だから音楽のテンションが低いとか高いとかそういうことを決めつける要因ではないのだと思えてきて、私はまたすんなりロックにのめりこんでいた。なんていうか、グルーヴ感というか、音律にうねりのようものが生じているかいないかが問題であり、テクニカルなこととか高度な音楽理論が楽曲の魅力の根幹をなしているのではないということが、遅ればせながらわかってきたのだろう。
それだけでもない。
私はロックを聴かない時期にも落語や講談は聞き続けていた。清志郎の声は、超一流の芸人特有の甲高さと低音部とか、ダミ声と甘い声とかの使い分けができていて、両性具有的な要素がある。だからいくらでも人格を演じ分けることができるだろうし、歌詞の内容以上に情緒に含みをもたせることができるのだろう。「ビート・ポップス」の歌詞に出てくるローランド・カークをどれくらい好きだったのかは知らないが、清志郎は「声のマルチ奏者」といっても過言ではない。たとえばU2のボノはこういう芸当ができない。あのひとはうまいが、いつでもかっこいいだけだ。子どもやご老人まで同調するような歌ではない。少しはずっこければいいんだ。
午後。託児付ヨガへ。3人のお母さんはそろいもそろって美人であることを、今になって確認した。それはともかく、この教室は楽しい。あたりまえの解放感がある。
帰宅時。新聞勧誘員がしつこく食い下がるのはいいが、三流のお笑い芸人の研究でもしているのか、やたらとぺこぺこしたり、不用意に自己卑下したりするのを見ていると次第に不愉快になってくる。「新聞はとるかもしれないから、名刺を置いていってくれ、あなたの名前をちゃんと出すから」と言っても引き下がらない。そういうしつこさがかえって逆効果でしかないことを、彼はわかっていない。営業が苦労であることは了解するが、営業している本人が商品の魅力を感じていないならその時点でペテンの稼業だ。自分の営業成績のことをとやかく気にする前に、日朝新聞をしっかり読んでみたらどうか。日韓スポーツがほんとうに他紙よりおもしろいと確信しているなら、それほどぺこぺこする必要もないし、洗剤や遊園地のタダ券をちらつかせることもないだろう。必死に生きているというより、必死に自分も他者もだまそうとしているようにしか見えないんだよ。そこんとこどうなんだ、毎朝新聞。
西友屋上で遊び。途中で嫁が交代してくれて休憩。つげ義春少読。「魚石」なる短編の表紙に二眼カメラの「リコーフレックス」が写っていた。中古カメラへの愛着というのはなんだろう。私は「リコーフレックス」や、ハーフカメラの1966年製「オリンパスペンFT」なんかをもっていて、いまだに手放すことができない。
それで今探してみたら、「オリンパスペンFT」が見つからない。
ならば、とて。忌野清志郎の名盤『GROOVIN' TIME』を聴く。「君たちはみんなガラクタなんだから」。
6/26(金)。前夜。疲労回復せず、筆記不調。夜半にまた「ひとつだけ」の矢野顕子・清志郎共演映像見る。ジャスラックは存在意義ありやなしや。彼らは「自己保身」以外に興味がないのではないか。本音を言えよ、ブタども。
翌。睡眠障害のさなか、ネズミ取りの夢見。スヴィドリガイロフもネズミがはい回る夢を見たらしい。そして死んだ。嫁が出勤するというが、起床困難。キッチンの「洗濯機故障、電話して」のメモが意味不明で混乱。わんたろうは軽食。父は残り物のアユ塩焼きをうまくもなく喰らいながら、おろそかにしていることを悔悟するより無念無想の腹下し。おまえのウンコにはなりたくねぇな、とアユ。バーロー、喰いたくねぇときもあるんだ、オレはうなぎの蒲焼きが喰いたいのにおまえが冷蔵庫で腐りかけているから喰うんだ、文句あるか。…いや、言い過ぎた、訂正する。うなぎはあくまでもたとえだ。ただあまり食べたくないときがあるんだ。
しばらくして、わんたろうはプリンと海苔を喰う。めしを喰えよ、めしを。「ぷりんもっとちょうだい」。知らんぷりんのプリンス。
♪ オレの名前はプリンスだ そしてオレはファンキーだ (by プリンス)
いつもの教育テレビではなく、たまたまニュースをつけたら、「マイケル死す」なる報道。格別驚きはない。「キング・オブ・ポップ」らしいが、あのひとは病気だということはずいぶん前から知れていた。報道機関はこの事件を取り上げすぎだ。やるならもっと別の角度から照射してみればいい。存分に彼を評価して、同時に彼の病理にどういう普遍性があるのかを分析してみればいい。そうでなければ救われない。報道はいつでもおためごかししか言わない。もう、うんざりなんだ。
夏日なのか。路上でルー君母子と遭遇し水遊び。わんたろうはそれで十分満足しているようだが、炎天下でアスファルトは焼けている。どこかの小学校は芝生になるらしい。
午後。遊びの延長でどこに行こうかすったもんだの挙げ句、「こうつうこうえんいく」というわんたろうに従って自転車移動。噴水が涼しげでいいが、わんたろうはすでにそれなりに遊びきった満足感があったのだろう。いつも盛り上がる「蟻地獄スライダー」で早々に愚図りだした。「おうちかえゆ」と自ら発案したのは、はじめてではないか。私にとってはラクでもあるが、拍子抜けの感じもある。
夕方。『罪と罰』は佳境だ。スヴィドリガイロフは死んだ。ラスコーリニコフは母を愛している。つまりこの物語は、「母性の崩壊」をさほど含んでいるわけではないのだろう。むしろ都市や時代が崩壊の兆しを見せているのだ。そして大地は母だ。都会は腐れ外道のすみかなのか。忙しい、あつい、さむい、せまい、くらい、じめじめしている。崩壊をまぬがれるのはむずかしい。
宵にマイケル続報。「ロンドン公演間近」だったと聞いて、「死因はトレーニングのやりすぎ」ではなく、「プレッシャーだろうし、ああいうひとは完ぺきにやりたがるんだ、清志郎のように軽い感じでそこらのライブハウスに飛び入りしたりはできないんだよ、だから明確に自殺とはいえないにしても、無意識レベルでは自殺なんだ」と嫁に話していたら、直後の映像でユリ・ゲラーが似たようなコメントをしていた。
「ついでにいうと、この報道には裏があるよ、つまり宣伝を兼ねているとか、そういうことだ、稀代のエンターテイナーであるマイケルはみんなに搾り取られたんだよ、死んでもまだやられている、かわいそうな芸人だ、そしてほぼ同世代のプリンスとは才能で比べものにならない、ファンは盲信しすぎだ、報道も偏りすぎだ、マイケルは確かに時代の寵児かもしれないが、同時にこの時代の犠牲者なんだ」
凡庸な私たちがカラオケでうたっても、同様以下のニュアンスしか醸し出せない。感情はただひといろになってしまう。
翌。わんたろうは5時半に起きて過活動。嫁はときどき怒るらしく、それはそれでいいが、「私が怒るととうちゃんをたよって逃げていく、怒るたびに嫌われるだけだ」という意味合いのことを言っていたが、私はそれなりにオッサンであり、時代が時代ならわんたろうのジイサンだといってもおかしくないのであり、また私はどういうわけか昔から孫が欲しかったのだから、私のことをジイサンだと思えばいい、ということを心の中で思った。まあ、若年寄というか、私にはジジイ的資質があるのかもしれないし、そしてそれ以外になにもないのだろう。母親は怒りたければ豪快に怒ればいい。そのときジイサンが優しければ、子どもがグレることはあるまい。ジイサンは役目が済んだら死ぬだけだ。
朝飯はシウマイ。わんたろうはあまり喰わず。9時半。ダラダラ保育していたら、わんたろうはウルトラマンの人形を握りしめたまま眠ってしまった。しばし清志郎インタビュー読。
読んでいて記憶が甦ってきたが、私は1982年『ビート・ポップス』以降、1986年のライブ盤が出るあたりまでまったくRCを聴いていなかったどころか、ロックそのものをあまり聴かなくなっていたのだ。ジャズばかり聴いていた。たぶんテンションのかかり方がものたらなくなっていたのだろう。それで、記憶上では『ビート・ポップス』のあとがいきなり1990年の『Baby a Go Go』に飛んでいる。
しかし、ロックに戻ってみると、エリック・ドルフィーと清志郎はけっこう似ているような気がしたり、コードが単純だから音楽のテンションが低いとか高いとかそういうことを決めつける要因ではないのだと思えてきて、私はまたすんなりロックにのめりこんでいた。なんていうか、グルーヴ感というか、音律にうねりのようものが生じているかいないかが問題であり、テクニカルなこととか高度な音楽理論が楽曲の魅力の根幹をなしているのではないということが、遅ればせながらわかってきたのだろう。
それだけでもない。
私はロックを聴かない時期にも落語や講談は聞き続けていた。清志郎の声は、超一流の芸人特有の甲高さと低音部とか、ダミ声と甘い声とかの使い分けができていて、両性具有的な要素がある。だからいくらでも人格を演じ分けることができるだろうし、歌詞の内容以上に情緒に含みをもたせることができるのだろう。「ビート・ポップス」の歌詞に出てくるローランド・カークをどれくらい好きだったのかは知らないが、清志郎は「声のマルチ奏者」といっても過言ではない。たとえばU2のボノはこういう芸当ができない。あのひとはうまいが、いつでもかっこいいだけだ。子どもやご老人まで同調するような歌ではない。少しはずっこければいいんだ。
午後。託児付ヨガへ。3人のお母さんはそろいもそろって美人であることを、今になって確認した。それはともかく、この教室は楽しい。あたりまえの解放感がある。
帰宅時。新聞勧誘員がしつこく食い下がるのはいいが、三流のお笑い芸人の研究でもしているのか、やたらとぺこぺこしたり、不用意に自己卑下したりするのを見ていると次第に不愉快になってくる。「新聞はとるかもしれないから、名刺を置いていってくれ、あなたの名前をちゃんと出すから」と言っても引き下がらない。そういうしつこさがかえって逆効果でしかないことを、彼はわかっていない。営業が苦労であることは了解するが、営業している本人が商品の魅力を感じていないならその時点でペテンの稼業だ。自分の営業成績のことをとやかく気にする前に、日朝新聞をしっかり読んでみたらどうか。日韓スポーツがほんとうに他紙よりおもしろいと確信しているなら、それほどぺこぺこする必要もないし、洗剤や遊園地のタダ券をちらつかせることもないだろう。必死に生きているというより、必死に自分も他者もだまそうとしているようにしか見えないんだよ。そこんとこどうなんだ、毎朝新聞。
西友屋上で遊び。途中で嫁が交代してくれて休憩。つげ義春少読。「魚石」なる短編の表紙に二眼カメラの「リコーフレックス」が写っていた。中古カメラへの愛着というのはなんだろう。私は「リコーフレックス」や、ハーフカメラの1966年製「オリンパスペンFT」なんかをもっていて、いまだに手放すことができない。
それで今探してみたら、「オリンパスペンFT」が見つからない。
ならば、とて。忌野清志郎の名盤『GROOVIN' TIME』を聴く。「君たちはみんなガラクタなんだから」。
6/26(金)。前夜。疲労回復せず、筆記不調。夜半にまた「ひとつだけ」の矢野顕子・清志郎共演映像見る。ジャスラックは存在意義ありやなしや。彼らは「自己保身」以外に興味がないのではないか。本音を言えよ、ブタども。
翌。睡眠障害のさなか、ネズミ取りの夢見。スヴィドリガイロフもネズミがはい回る夢を見たらしい。そして死んだ。嫁が出勤するというが、起床困難。キッチンの「洗濯機故障、電話して」のメモが意味不明で混乱。わんたろうは軽食。父は残り物のアユ塩焼きをうまくもなく喰らいながら、おろそかにしていることを悔悟するより無念無想の腹下し。おまえのウンコにはなりたくねぇな、とアユ。バーロー、喰いたくねぇときもあるんだ、オレはうなぎの蒲焼きが喰いたいのにおまえが冷蔵庫で腐りかけているから喰うんだ、文句あるか。…いや、言い過ぎた、訂正する。うなぎはあくまでもたとえだ。ただあまり食べたくないときがあるんだ。
しばらくして、わんたろうはプリンと海苔を喰う。めしを喰えよ、めしを。「ぷりんもっとちょうだい」。知らんぷりんのプリンス。
♪ オレの名前はプリンスだ そしてオレはファンキーだ (by プリンス)
いつもの教育テレビではなく、たまたまニュースをつけたら、「マイケル死す」なる報道。格別驚きはない。「キング・オブ・ポップ」らしいが、あのひとは病気だということはずいぶん前から知れていた。報道機関はこの事件を取り上げすぎだ。やるならもっと別の角度から照射してみればいい。存分に彼を評価して、同時に彼の病理にどういう普遍性があるのかを分析してみればいい。そうでなければ救われない。報道はいつでもおためごかししか言わない。もう、うんざりなんだ。
夏日なのか。路上でルー君母子と遭遇し水遊び。わんたろうはそれで十分満足しているようだが、炎天下でアスファルトは焼けている。どこかの小学校は芝生になるらしい。
午後。遊びの延長でどこに行こうかすったもんだの挙げ句、「こうつうこうえんいく」というわんたろうに従って自転車移動。噴水が涼しげでいいが、わんたろうはすでにそれなりに遊びきった満足感があったのだろう。いつも盛り上がる「蟻地獄スライダー」で早々に愚図りだした。「おうちかえゆ」と自ら発案したのは、はじめてではないか。私にとってはラクでもあるが、拍子抜けの感じもある。
夕方。『罪と罰』は佳境だ。スヴィドリガイロフは死んだ。ラスコーリニコフは母を愛している。つまりこの物語は、「母性の崩壊」をさほど含んでいるわけではないのだろう。むしろ都市や時代が崩壊の兆しを見せているのだ。そして大地は母だ。都会は腐れ外道のすみかなのか。忙しい、あつい、さむい、せまい、くらい、じめじめしている。崩壊をまぬがれるのはむずかしい。
宵にマイケル続報。「ロンドン公演間近」だったと聞いて、「死因はトレーニングのやりすぎ」ではなく、「プレッシャーだろうし、ああいうひとは完ぺきにやりたがるんだ、清志郎のように軽い感じでそこらのライブハウスに飛び入りしたりはできないんだよ、だから明確に自殺とはいえないにしても、無意識レベルでは自殺なんだ」と嫁に話していたら、直後の映像でユリ・ゲラーが似たようなコメントをしていた。
「ついでにいうと、この報道には裏があるよ、つまり宣伝を兼ねているとか、そういうことだ、稀代のエンターテイナーであるマイケルはみんなに搾り取られたんだよ、死んでもまだやられている、かわいそうな芸人だ、そしてほぼ同世代のプリンスとは才能で比べものにならない、ファンは盲信しすぎだ、報道も偏りすぎだ、マイケルは確かに時代の寵児かもしれないが、同時にこの時代の犠牲者なんだ」
2009年07月02日
ぶっくぃしたなぁ(ビックリしたなぁ)。09.6.24。
前置き:これは「不幸のブログ」です。(このブログを読んで面白かったら、5人に紹介するように。さもないと、インキンがうつるよ、にょしょうはビランするよ。提供:ビッグイシュー)
6/24(水)。
なぜ私のブログはかくも不人気なのか?
シーサー・ランキングで1万位前後というのは、シーサー内でも私よりおもしろいことを書いているだれかが1万人以上いるわけで、きっと彼らはよほど刻苦勉励していたり、研究熱心であるのだろうと思うこともあるが、ミクシイや映画のネットワークもただ駄弁を恥じることなく書き散らかす輩がほとんどで、あえて全文を読むほどのシロモノでもないのだから、彼らはきっと駄文を見せ合うことで自分を慰めているのだろう。互いにつながったりして、励まし合ったりして。まったく、本物は理解されない。と、自分を慰めているのはオレ様だ。はひふへほ。
前夜。筆記中にわんたろうが侵入して、背後で書棚から昔のアルバムを引っ張り出して見ていたのだろう。とつぜん、「きよしよぅ、きよしよぅ」と大声出すので、なにごとかと見ればまさに忌野清志郎の写真であり、日付は2006年の7月で、喉頭ガンで入院したときにテレビの映像を撮った数枚の写真を指さして反応していたのだ。
前後にはジダンが頭突きして退場させられる写真とか、イタリアが優勝して喜んでいる写真とかがあって、さらにスキャナーで見た胎児時代のわんたろうのプリントなんかも保存してある(私は病院でもらったそのプリントをすべてアルバムに収めている)。8月には甲子園の決勝戦を撮った数枚の8分割写真があり、早実の斎藤と駒大苫小牧の田中が対決している。どうでもいいがラムズフェルドが退任して、10月にわんたろうが生まれてからはわんたろうの写真ばかりになっている。
「ほら、わんたろうだよ、これが生まれてすぐの写真だよ」といっても、はっきりわからないのか、「あかちゃん」としか言わない。記憶がないのだからあたりまえだろうが、その後のアルバムをめくってみると、わんたろうはけっこう笑っていて、私の写真の撮り方は今よりよほどうまいような気がするくらい変化に富んでいる。あいまに適宜テレビから時事的な話題をとりこんでいる。だから時代背景がよくわかる。カメラそのものは今のほうが優れものだが(現在はリコーのGRないしはニコンのD90、当時はカシオの旧型エクシリムに東急ハンズで買った携帯電話用の特殊レンズを装着していた)、今は決まりきったパターンでしか撮っていない。だから写真がつまらなくなっている。
翌。睡眠障害というのか、起きても眠い。外は雨で、こんな日も練習しているのかと思い、「すごいよねぇ、ちーちゃん」というと、「そうだよねぇ」と嫁。いやしかしね、それ以上の意味はないよ、別に大したことじゃないよ、と言いかけたが、これはやめた。ほんとはすがりつくような気分で練習して自分を維持しているだけかもしれない。ある意味ではそうだと思って肯定すればいいが、彼らはとことんごまかそうとする傾向があるから。ほんとは自分がなにをやりたいのかすらわからない迷子チャンにすぎないのだと思っているならいいが。
たとえば「突っ込み屋」の緑川某は「シカトしている」というが、そうではなくて彼らは真実を抉られることを恐れているのかもしれない。ミクシイ上では奇っ怪な関係が続いているが、彼らは私を切ることすらできない。まともな修行者なら「破門」するはずだ。端的に言うなら、無謀なわりには豪快さが感じられないし、義務みたいに練習しているからイヤになってくるんだ。ミクシイには未来性をかいま見ればいいのに。だからもっと粘ればいいのに。つまらないプライドで、なにを閉ざしてしまうのか。私は読者が限りなくゼロに近くても、ひたすら書きつづけている。
朝食。おこわと豆腐のみそ汁。昼にシャケおにぎり、カップそば。わんたろうはその都度軽食。ロッキング・オンの清志郎インタビューきれぎれ読。渋谷陽一が自信満々で突っ込みすぎるきらいはある。言いよどんだり、ぼそぼそ語る雰囲気は連野城太郎『GOTTA!』がまさる。
昼頃、雨やんでDVD返却後、「交通公園」へ。『共同幻想論』と『罪と罰』の読み合わせはずいぶんきつい。ラスコーリニコフとポルフィーリイのやりとりは「江戸時代」っぽくもない。ずいぶん未来だ。
わんたろうは雨上がり直後のがら空き園内でも果敢に友だちアタック。転んで泣いている子がいれば、「だいじょうぶ? しんぱい、しんぱい」だと。
夕方。どこかの母親はときどき激しく子どもを怒ってしまうらしい。そういうことはよくあることだから、自分一人で抱えないように。あなたより私は劣っている。その証拠に、ミクシイではめっぽう嫌われてブログでは1万人以下でしかない。まあ、ミクシイはほとんど当初のヨガがらみで、彼らはひどく傷つきやすくて、あきれるほどウソが巧みだから。
オレがほんとうのことを書いたら、「ぶっくぃしたなぁ、もう」と彼らが破裂してオレを廃棄した。
6/24(水)。
なぜ私のブログはかくも不人気なのか?
シーサー・ランキングで1万位前後というのは、シーサー内でも私よりおもしろいことを書いているだれかが1万人以上いるわけで、きっと彼らはよほど刻苦勉励していたり、研究熱心であるのだろうと思うこともあるが、ミクシイや映画のネットワークもただ駄弁を恥じることなく書き散らかす輩がほとんどで、あえて全文を読むほどのシロモノでもないのだから、彼らはきっと駄文を見せ合うことで自分を慰めているのだろう。互いにつながったりして、励まし合ったりして。まったく、本物は理解されない。と、自分を慰めているのはオレ様だ。はひふへほ。
前夜。筆記中にわんたろうが侵入して、背後で書棚から昔のアルバムを引っ張り出して見ていたのだろう。とつぜん、「きよしよぅ、きよしよぅ」と大声出すので、なにごとかと見ればまさに忌野清志郎の写真であり、日付は2006年の7月で、喉頭ガンで入院したときにテレビの映像を撮った数枚の写真を指さして反応していたのだ。
前後にはジダンが頭突きして退場させられる写真とか、イタリアが優勝して喜んでいる写真とかがあって、さらにスキャナーで見た胎児時代のわんたろうのプリントなんかも保存してある(私は病院でもらったそのプリントをすべてアルバムに収めている)。8月には甲子園の決勝戦を撮った数枚の8分割写真があり、早実の斎藤と駒大苫小牧の田中が対決している。どうでもいいがラムズフェルドが退任して、10月にわんたろうが生まれてからはわんたろうの写真ばかりになっている。
「ほら、わんたろうだよ、これが生まれてすぐの写真だよ」といっても、はっきりわからないのか、「あかちゃん」としか言わない。記憶がないのだからあたりまえだろうが、その後のアルバムをめくってみると、わんたろうはけっこう笑っていて、私の写真の撮り方は今よりよほどうまいような気がするくらい変化に富んでいる。あいまに適宜テレビから時事的な話題をとりこんでいる。だから時代背景がよくわかる。カメラそのものは今のほうが優れものだが(現在はリコーのGRないしはニコンのD90、当時はカシオの旧型エクシリムに東急ハンズで買った携帯電話用の特殊レンズを装着していた)、今は決まりきったパターンでしか撮っていない。だから写真がつまらなくなっている。
翌。睡眠障害というのか、起きても眠い。外は雨で、こんな日も練習しているのかと思い、「すごいよねぇ、ちーちゃん」というと、「そうだよねぇ」と嫁。いやしかしね、それ以上の意味はないよ、別に大したことじゃないよ、と言いかけたが、これはやめた。ほんとはすがりつくような気分で練習して自分を維持しているだけかもしれない。ある意味ではそうだと思って肯定すればいいが、彼らはとことんごまかそうとする傾向があるから。ほんとは自分がなにをやりたいのかすらわからない迷子チャンにすぎないのだと思っているならいいが。
たとえば「突っ込み屋」の緑川某は「シカトしている」というが、そうではなくて彼らは真実を抉られることを恐れているのかもしれない。ミクシイ上では奇っ怪な関係が続いているが、彼らは私を切ることすらできない。まともな修行者なら「破門」するはずだ。端的に言うなら、無謀なわりには豪快さが感じられないし、義務みたいに練習しているからイヤになってくるんだ。ミクシイには未来性をかいま見ればいいのに。だからもっと粘ればいいのに。つまらないプライドで、なにを閉ざしてしまうのか。私は読者が限りなくゼロに近くても、ひたすら書きつづけている。
朝食。おこわと豆腐のみそ汁。昼にシャケおにぎり、カップそば。わんたろうはその都度軽食。ロッキング・オンの清志郎インタビューきれぎれ読。渋谷陽一が自信満々で突っ込みすぎるきらいはある。言いよどんだり、ぼそぼそ語る雰囲気は連野城太郎『GOTTA!』がまさる。
昼頃、雨やんでDVD返却後、「交通公園」へ。『共同幻想論』と『罪と罰』の読み合わせはずいぶんきつい。ラスコーリニコフとポルフィーリイのやりとりは「江戸時代」っぽくもない。ずいぶん未来だ。
わんたろうは雨上がり直後のがら空き園内でも果敢に友だちアタック。転んで泣いている子がいれば、「だいじょうぶ? しんぱい、しんぱい」だと。
夕方。どこかの母親はときどき激しく子どもを怒ってしまうらしい。そういうことはよくあることだから、自分一人で抱えないように。あなたより私は劣っている。その証拠に、ミクシイではめっぽう嫌われてブログでは1万人以下でしかない。まあ、ミクシイはほとんど当初のヨガがらみで、彼らはひどく傷つきやすくて、あきれるほどウソが巧みだから。
オレがほんとうのことを書いたら、「ぶっくぃしたなぁ、もう」と彼らが破裂してオレを廃棄した。
「恐ろしい人間の麻酔銃に撃たれ」。09.6.23。
6/23(火、新月)。前夜。筆記中に水着を試着したわんたろう登場。茶と黄色のワンピースみたいな代物で、ちょっと女の子っぽく見える。真夏はこれを着せてジャブジャブ池で遊ぶか。「ファッション・ショー」終了後、夜半まで筆記と送信。Mちゃんとのやりとりはもう少し工夫しなければ。
翌。二日酔いは久しぶりか。昨夜は遅くなりすぎた。とにかく不調。コッシーは「がまん」がテーマ。友だちのために我慢することは大切だということを、私はわんたろうに口うるさくもなく巧みに伝えることができるだろうか。わんたろうはしかし、近頃「ごめんね」が言えるようになってきた。2才児はすごい。それに比べて40才児はどうか。利害がからんでいなければ「わりぃわりぃ」とか「めんご」としか言わない。まったくもってぞんざいな。ひとをバカにしたような。
家事はほぼ手抜き。ひたすら二日酔いをしのぐだけ。『おはなしのくに』は『かわいそうなゾウ』の再放送。役者が身振り手振りで演じながら絵本を朗読するこの番組はけっこう好きだ。浅野温子や蟹江敬三はさすがだと思わされたし、声優の肝付某(*)はきわだってユニークだった。
ところで、太平洋戦争中に殺された上野動物園のゾウの話(演者の名前失念)。彼らは嗅覚が鋭敏なためか、他のどうぶつのように毒殺することもできず、餓死させられたそうだ。
「ドンキーが死んだ、ワンリーも死んだ」というくだりで、わんたろうが「ぞうさんしんじゃったねぇ、かぁいそうねぇー」とくり返している。上野には動物慰霊碑がある。私はつぎに行くときに、わんたろうにゾウさんの話をうまく想い出させることができるだろうか。夏が来るたびに戦禍に巻き込まれた死者を想像したり、夜が来るたびに酒場の知人が死んでいったことを想い出す。彼らの幾人かは身寄りもなく、無縁仏として葬られたはずだ。
母子手作りのシウマイ食べて家事は手抜き。ややもすればストーリーも特撮も粗雑な『ウルトラマンA』見終えて外出支度。あざむくつもりなどなく、「遊びに行こう」とわんたろうを体操クラブへ。少し嫌がっているが、「ピョンピョンしたりゴロゴロしたりして遊ぶだけだよ、楽しいだろう」というと、「うん、たのしい」、「先生はやさしいよね」というと、「うん、やさしい」。そのあとアンパンマンの歌をうたったりして気分を盛り上げる。いずこの母も似たような悩みをもっている。うまく切り抜けて前に進めることもあろうが、一歩引いたり嘆いたりしてしんどいときもある。しかし、いずれの状態でも大したことではない。必要以上に浮かれたり沈んだりしなければいいだけだ。
午後。せわしなくとうちゃんの体操クラブへ。私立幼稚園の保育士は数年間給料のアップもなく、サービス残業を強いられているのだと。だれかが搾取しているし、儲けすぎている。
♪
親愛なるブロック塀、その向こうに
意地悪くボクから取り上げたものを
隠したりひやかしたりは
もうしないでくれよ
(「君を呼んだのに」作詞・作曲:忌野清志郎)
ずいぶんまじめな人が虐げられたり、社会の落ちこぼれと見なされるのだとしたら、大洪水を待ち望む無言の勢力は増えるばかりだ。「ボクから取り上げたものを隠したり」はともかく、「ひやかす」という飛躍が起きたら、ギロチンゲームがはじまるよ。
かわいそうなゾウの頭とすげかえるか。ゾウ奇異ショック。
*声優:肝付兼太
http://ja.wikipedia.org/wiki/肝付兼太
バカボンのおまわりさんしか思いつかなかったが、イヤミもスネ夫もこの人で、最近では「アンパンマン」のホラーマンもそうらしい。役者としてもっと表舞台で活躍してほしい。
…タイトルは曲名不明だが、「夢に見るアフリカ、まばゆい光のパラダイスにはもう帰れないのか」とつづく、姉が習っていたエレクトーンの練習曲より。このとき、主人公はゴリラだ。
2009年06月30日
あなたと夜と阿呆陀羅経。09.6.22。
6/22(月)。曇りのち雨。前夜。臓器移植話は乱雑すぎたか。夜半につげ漫画(『李さん一家/海辺の叙景』ちくま文庫)読了。「旅に出ると、自分は何処の誰でもないという解放感を味わいますよね。旅はいずれ戻るけれど、蒸発は戻らないから、もっと極限状態になる。(中略)社会と縁が切れ、社会との関係で規定されていた自分から解放される」(「峠の犬」、作者解説)。
…「解放感」なのか「寂寥感」なのか。ひとによっては後者でしかないのかもしれない。そもそも「社会との関係で規定」されているという気分を理解できないひともいる。そういうひとは会社が倒産でもしない限り、「解放」されないだろうが、それでもまだ「解放」であることに気づかず、地団駄踏んで悔しがったり、絶望したりするのだろうか。自分の身分が規定されていないと安心できないひとは多い。それは現代病かもしれない。
「空の鳥を見てごらん。まかず、刈らず、倉にしまいこむこともないのに、天の父上はそれを養ってくださるのである」(マタイ、6-26。「生活の心配をするな」)
大学を卒業してすぐに一流か二流企業に就職して、大きな挫折を味わうことなく順風満帆の人生を送っているひとは、「社会の規定」から外れているひとが不安と焦燥に駆られているだけだと思っているのかもしれないが、実はそうではなくストレスから離れて気楽に生きていることを、羨望やあこがれの眼差しで見るべきではないのか。ヨガ組の悪いクセは、ほんとうに思っていることを一切口にせず、とおりいっぺんの理解や同情を言ってみることだ。バカにしているならはっきりそういえばいいし、「ああいうふうになりたくない」ならそういえばいいのに。彼らの正義はジャーナリズムのそれと変わらない。だから悪は否定や無理解の対象にするだけで、ほんとうはなにもわかっていない。わかっていないことを偽装したり粉飾するために、彼らは突然高みからものをいうときもある。もっとへらへら笑うとか、めそめそ泣くとか、爆発的に怒るとか、シモネタで笑わせるとかしてみたらどうか。どこに平等心があるのか。
翌。臓器移植のことで吉本翁の文献調べ。とりあえず『世界認識の臨界へ』(深夜叢書社)に「成熟と死と生き延びるもの」という章があり、一部読み直し。「人間という概念を変えなきゃいけないということがほんとは問われている」。
…なるほど、そうすると昨日書いた自分の文章はそれほど外れていないだろう。ほんとうは「自殺者は強気だ」と言ってみたいだけだったが。他人の死や痛みには無関心なクセに、自分や自分の身内のことだけは切実になってしまう、人間はそういうところがある。どれほど宗教の訓練を重ねて「他人の痛みを知る」とか「他者の苦しみを自己の苦しみに」とくり返してみても、そこに限界があることを絶望してないなら、アホだら経を唱えているのと変わらない。わんでいぐるなん、ちゃらならビンボー。せいぜいひれ伏せ、ゾウの頭に。エテ公の神に。ちっとも信じてなんかいないクセに。『ビッグイシュー』でも買ったらどうだ。しっかり勉強したらどうだ。理解できないなりに経典を読んだらどうだ。ウソばっかりこきやがって。
午前中、『赤ひげ』後半鑑賞。ずいぶん落涙。赤ひげが心を病んだ少女に匙ですくった薬を飲ませようとして、そのたびにはたき落とされ、それでも「うむ」とか「ほお」とか言いつつ何度も投薬をくり返すシーンは、映画史に残る名場面だと思う。私たちは根気がないから、すぐに子ども(や部下)を叱りつけることを有効な「指導法」だと見なしているのかもしれないが、反発や鬱屈を先送りしているだけだと思えるだろうか。子どもは創造性の発現に恐怖を結びつけるようになるかもしれない。規則や親の言いつけを遵守することが、もっとも楽な生き方だとおぼえて、ダメになっていくのかもしれない。
午後。曇天から小雨。中野の『おもちゃ美術館』へ向かったが、中野からバスで移動したところ、そこはおもちゃショップになっていて『おもちゃ美術館』は4月に四谷に移転したのだと。…そうか、事前の下調べがあまかったな、情報が古すぎたのだ、しかしこういうときこそ本領が試されるのだ、人生は計画通りに進むものではないし、無理に計画を進めるものでもない、けれど四谷なら今からでも行ける、れっつらごー。
ブロードウェイ散策しつつ、自分用の草履とわんたろうの水着購入。快速で四谷まで、丸ノ内線に乗り換えて四谷三丁目の『おもちゃ美術館』に到着したときは、わんたろうは愚図りかけていたし、嫁はダッコで疲れていたし、とうちゃんは中毒症状が出ていた。
四谷第四小学校の廃校跡が美術館になっている。こういう土地はけっこうあるはずだし、それをどういうふうに再利用するかを考えるのは、私たちおとなの役割かもしれない。駅前にパチンコ屋が居並ぶことをだれもが望んでいるのではないように、廃校の敷地に集合住宅ができることをだれもが望んでいるはずがない。私はやはり、どうしても六本木ヒルズあたりを見てみたい。今さら都心部を田園風景に戻すことを考えるより、もっとちがう方法を見出すことが未来性なのだろう。
垂直にのびていく自然風景というのは、どういうふうにイメージしたらいいのか。ガウディならなにをつくるか。磯崎新氏ならどう利用するだろうか。高床式倉庫みたいなものや、樹上家屋みたいなものを林立させて、平地が水田になっているような、人工的な超自然をつくれないものか。新しい寺社みたいな超空間を創造できないか。
ヘタな鉄砲の無駄撃ちでもいいから、そういう創造性のある瞑想をしよう。神仏のイメージを刷り込んでどうなるのか。天皇皇后両陛下の御影を拝んでいたのはいつのことだったか。昭和40年代には幼稚園にそれがあった。今、どこかのヨガも同じだ。なんだかわからねえ、なしくずしのシステムをずいぶんあがめむのんだったな。たいようバンザイ、あぽろん、あぽろん。
(ところでべんぱつのだれかは今も「日清戦争」のつもりなのか? 今度はなんにかぶれたのか? インコのエサでも喰って稗だのアレだの乞食ぶったら大いに安まろう。)
オレは正直に読者に銭を乞う。おもしろかったら10円くれ。
…「解放感」なのか「寂寥感」なのか。ひとによっては後者でしかないのかもしれない。そもそも「社会との関係で規定」されているという気分を理解できないひともいる。そういうひとは会社が倒産でもしない限り、「解放」されないだろうが、それでもまだ「解放」であることに気づかず、地団駄踏んで悔しがったり、絶望したりするのだろうか。自分の身分が規定されていないと安心できないひとは多い。それは現代病かもしれない。
「空の鳥を見てごらん。まかず、刈らず、倉にしまいこむこともないのに、天の父上はそれを養ってくださるのである」(マタイ、6-26。「生活の心配をするな」)
大学を卒業してすぐに一流か二流企業に就職して、大きな挫折を味わうことなく順風満帆の人生を送っているひとは、「社会の規定」から外れているひとが不安と焦燥に駆られているだけだと思っているのかもしれないが、実はそうではなくストレスから離れて気楽に生きていることを、羨望やあこがれの眼差しで見るべきではないのか。ヨガ組の悪いクセは、ほんとうに思っていることを一切口にせず、とおりいっぺんの理解や同情を言ってみることだ。バカにしているならはっきりそういえばいいし、「ああいうふうになりたくない」ならそういえばいいのに。彼らの正義はジャーナリズムのそれと変わらない。だから悪は否定や無理解の対象にするだけで、ほんとうはなにもわかっていない。わかっていないことを偽装したり粉飾するために、彼らは突然高みからものをいうときもある。もっとへらへら笑うとか、めそめそ泣くとか、爆発的に怒るとか、シモネタで笑わせるとかしてみたらどうか。どこに平等心があるのか。
翌。臓器移植のことで吉本翁の文献調べ。とりあえず『世界認識の臨界へ』(深夜叢書社)に「成熟と死と生き延びるもの」という章があり、一部読み直し。「人間という概念を変えなきゃいけないということがほんとは問われている」。
…なるほど、そうすると昨日書いた自分の文章はそれほど外れていないだろう。ほんとうは「自殺者は強気だ」と言ってみたいだけだったが。他人の死や痛みには無関心なクセに、自分や自分の身内のことだけは切実になってしまう、人間はそういうところがある。どれほど宗教の訓練を重ねて「他人の痛みを知る」とか「他者の苦しみを自己の苦しみに」とくり返してみても、そこに限界があることを絶望してないなら、アホだら経を唱えているのと変わらない。わんでいぐるなん、ちゃらならビンボー。せいぜいひれ伏せ、ゾウの頭に。エテ公の神に。ちっとも信じてなんかいないクセに。『ビッグイシュー』でも買ったらどうだ。しっかり勉強したらどうだ。理解できないなりに経典を読んだらどうだ。ウソばっかりこきやがって。
午前中、『赤ひげ』後半鑑賞。ずいぶん落涙。赤ひげが心を病んだ少女に匙ですくった薬を飲ませようとして、そのたびにはたき落とされ、それでも「うむ」とか「ほお」とか言いつつ何度も投薬をくり返すシーンは、映画史に残る名場面だと思う。私たちは根気がないから、すぐに子ども(や部下)を叱りつけることを有効な「指導法」だと見なしているのかもしれないが、反発や鬱屈を先送りしているだけだと思えるだろうか。子どもは創造性の発現に恐怖を結びつけるようになるかもしれない。規則や親の言いつけを遵守することが、もっとも楽な生き方だとおぼえて、ダメになっていくのかもしれない。
午後。曇天から小雨。中野の『おもちゃ美術館』へ向かったが、中野からバスで移動したところ、そこはおもちゃショップになっていて『おもちゃ美術館』は4月に四谷に移転したのだと。…そうか、事前の下調べがあまかったな、情報が古すぎたのだ、しかしこういうときこそ本領が試されるのだ、人生は計画通りに進むものではないし、無理に計画を進めるものでもない、けれど四谷なら今からでも行ける、れっつらごー。
ブロードウェイ散策しつつ、自分用の草履とわんたろうの水着購入。快速で四谷まで、丸ノ内線に乗り換えて四谷三丁目の『おもちゃ美術館』に到着したときは、わんたろうは愚図りかけていたし、嫁はダッコで疲れていたし、とうちゃんは中毒症状が出ていた。
四谷第四小学校の廃校跡が美術館になっている。こういう土地はけっこうあるはずだし、それをどういうふうに再利用するかを考えるのは、私たちおとなの役割かもしれない。駅前にパチンコ屋が居並ぶことをだれもが望んでいるのではないように、廃校の敷地に集合住宅ができることをだれもが望んでいるはずがない。私はやはり、どうしても六本木ヒルズあたりを見てみたい。今さら都心部を田園風景に戻すことを考えるより、もっとちがう方法を見出すことが未来性なのだろう。
垂直にのびていく自然風景というのは、どういうふうにイメージしたらいいのか。ガウディならなにをつくるか。磯崎新氏ならどう利用するだろうか。高床式倉庫みたいなものや、樹上家屋みたいなものを林立させて、平地が水田になっているような、人工的な超自然をつくれないものか。新しい寺社みたいな超空間を創造できないか。
ヘタな鉄砲の無駄撃ちでもいいから、そういう創造性のある瞑想をしよう。神仏のイメージを刷り込んでどうなるのか。天皇皇后両陛下の御影を拝んでいたのはいつのことだったか。昭和40年代には幼稚園にそれがあった。今、どこかのヨガも同じだ。なんだかわからねえ、なしくずしのシステムをずいぶんあがめむのんだったな。たいようバンザイ、あぽろん、あぽろん。
(ところでべんぱつのだれかは今も「日清戦争」のつもりなのか? 今度はなんにかぶれたのか? インコのエサでも喰って稗だのアレだの乞食ぶったら大いに安まろう。)
オレは正直に読者に銭を乞う。おもしろかったら10円くれ。
2009年06月28日
埋葬る・式。09.6.20-21。
6/20(土)。前夜。つげ漫画読みつつ独り寝。ボンヤリしている時間がいい。
翌。嫁の出勤は見届けず。おこわ、納豆、こんぶ、梅干し、イシイのミートボール。わんたろうが『マダガスカル』見ているあいだ、別のテレビで『タモリ倶楽部』録画見。阿佐ヶ谷神明宮の「曳き家」話。娯楽的民俗学。
さりげなく体操へ。
わんたろうはカンネンしたわけでもないだろうが、体操への嫌気はややおさまっている。いつものスーパーでカツオの刺身とメロンとアイスクリーム買って帰路。午後は「交通公園」。児童館とは運動量が比較にならない。わんたろうは幼稚園児や小学生に平気で紛れ込んでしまう。赤い「フェアレディZ」が大好きで、自転車は苦手なままだ。
父は時々そうなるように児童に侮られ、遊び相手にされたが、それは実にラッキーなことである。
16時。わんたろうに疲労が見えたあたりで休憩に誘い、公園から脱出。成田東方面へ迂回して南阿佐ヶ谷から帰路。なぜか、空が広く見える。視界良好。近隣に高いビルがなくて、路地が広ければそういうことになるのは当たり前だが、杉並あたりで空が広く見える路地というのはめったにないのだ。わんたろうは空を見上げて、「ひこーきみえゆ、くもうごいてゆ」と言っていた。わんたろうよ、いつかきっと夕焼けと虹と星空をとりもどそう。
ほどなく、わんたろうはこっくりして車上入眠。父は帰宅後にマルメラードフの葬儀話きれぎれ読み、発泡酒でだらけ。思えば亡父の葬儀もこのようなものであったか。
「お別れはすぐに済んでしまった。いつものようななにげない朝は、知らん顔してボクを起こした」(RCサクセション「ヒッピーに捧ぐ」)。
葬式に酒を飲みに来るだけのヤツもいれば、つき合い上やむなく来るだけのヤツもいる。儀礼を学ぶために来るヤツもいる。後日もっと大物の「本番」でしくじらないために。マルメラードフの女房が勝手にやりたければやるだろうが、死人にとってはそんなことどうでもいいのだ。葬儀の指示出すようなことになんの意味もない。
思えば父は、兄弟の多い母方の親戚の集いで、Kオジとよく酒を酌みかわしていた。小学校の用務員だったKオジは職業差別の対象になっていたし、他の親戚は並んで坐ることすら拒んでいたかもしれない。けれど、父はそういうKオジと酒杯をやったりとったりしていて楽しそうだったし、私はそういう父の姿を見るのが好きだった。幼児期の私にとって、Kオジは野卑でけっして親しみやすい存在ではなかったが、他のオジオバのように「おとなぶった」気配もなかった。
私の父はそういうことを機敏に感じていたのかもしれないし、ほんとうのところはよくわからないままだが、適度に酔うとなかなかいい感じであり、またシラフのときでも酔うた感じをうまく出しているときがあり、晩年は幼児の相手をするのがうまかったらしい。私はそういう父に、今もかなわない気がする。
思えば、ドストにしろ吉本三部作にしろ清志郎にしろ北野武にしろ、私は20〜30年前をさかのぼろうとしている。
「危険はつきものだしさ、人生なんていいんだよ、別に(笑)。どうなったって(笑)。またやり直しゃいんだ。」
(ロッキング・オン特別号、「忌野清志郎 1951-2009」62頁)
…ひとたび転落してみれば維持することのバカらしさくらいはわかる。元にもどろうともがいても、どうせ元にもどれないからそうなったのだとか、自業自得だとか思えるなら、はじめて「あきらめ」の意味くらいは実感するだろう。ズンドコでもどん底でも経験すれば、流浪の身であることに頼りなさをおぼえるだろうが、今までしがみついてきた会社やら友人関係やらにさほどの価値がないことだけは知るだろうし、それが苦いか辛いかなどはどうでもいいんだ。私たちは「超人生」の領域に入ったと思えるのか、ただオレは落魄した、他のヤツらはうまくやっているのに、悔しくてしょうがないと思っているのかで、天国と地獄の差があるはずだ。
6/21(日)、夏至。死体も腐る。長寿という幻想。
前夜。カツオの刺身はだれも喰わず。酒肴と化して自腹へ。嫁が購入した『Oh! RADIO』と『シングル・マン』聴きつつ。「君は空を飛ぶのが大好きだった」(「うわの空」)。空を飛ぶ練習はやっているか。
翌。『愛と非暴力』読。六波羅蜜の努力(精進)。
「「なんと自分は無力な、役立たずの人間だろう」と思うのは、人生の失敗のもとです。「自分にはこれができる」と強い心をもつことが大切です。ただし、これに慢心などの煩悩がまざり合っていてはいけません。」
「何をするにも、長期にわたるほどほどの(中庸の)努力が必要です。最初から多くのことを成しとげようして極端な努力をすると、たちまちのうちにすべてを放棄することになります。」214頁
…ひたすらなる身体の訓練がやがてどこへ行き着くのかを見極めようとすると、たいてい慢心や偏見や激しい思いこみにぶつかる。そこから先に慈悲や智慧が見えてくるような気がしない。「中庸」とはどこにあるのか。怠け癖のあるヤツがそれをくり返したり、少しも技量が向上しない言い訳のためにつかうのならやめたほうがいい。たとえばヨガ哲学に自分を馴致させようとしたいなら、とことんまでやればいい。いつまでも片手間でできるなりわいなどない。趣味なら趣味としてやればいい。
『サンデー・ジャポン』は「脳死は人の死か?」のような話題で、これには「臓器移植」問題がからんでいる。延命技術が進歩したことは確かだが、「平均寿命70ウン才」というのは、ほんとうの幸福とどの程度かかわっているのか。成熟するために必要な時間はどれくらいなのか。それは死の側(彼岸)から時間をさかのぼることにあるのではないか。
DVD『赤ひげ』途中まで見て、神田へ。外は雨。
「老病死」を間近に見て愚蒙から解放されるだれかもいれば、ひたすら「美と若さと健康」を追求して勘違いしたままのだれかもいる。「変身願望」が内か外かの違いがあるだけで、どいつもこいつも私もあなたも「勘違いしたバカヤロー」だと、罵っておくか。私たちは死に際で智慧に近づくのか、ひたすらオロオロするのか。生きているうちにオロオロすればいいのに。そういうことを隠さなければいいのに。「また一歩成長しました」とだけ言いたいのだろう。…べべん、べん、べん、
たけきものもー、ついにはー、「ホルモンとビール」。
べべん、べん、べん、(ooh, my soul style, I love U.)べべん、べん、べん、
死ぬのが怖いとか、ジジババになりたくないとか、ただそれだけならそれだけだと表明するか。埋葬されても土から這い出るつもりだとか、オレはgunで死にたいとか、野垂れ死にしたいとか、ディズニー・ランドに行ってから死にたいとか、ソープランドに行くとか、ソープランドで働いてみたいとか、死ぬ前に一度でいいから粉飾の気配を一切なくしてほんとうの気持ちを表明したいとか、そういうことはあるだろう。
一度自分を葬るように、「実は私はこれこれこういうタイプの変態です」と、あなたが告白してください。らいなうっ。
翌。嫁の出勤は見届けず。おこわ、納豆、こんぶ、梅干し、イシイのミートボール。わんたろうが『マダガスカル』見ているあいだ、別のテレビで『タモリ倶楽部』録画見。阿佐ヶ谷神明宮の「曳き家」話。娯楽的民俗学。
さりげなく体操へ。
わんたろうはカンネンしたわけでもないだろうが、体操への嫌気はややおさまっている。いつものスーパーでカツオの刺身とメロンとアイスクリーム買って帰路。午後は「交通公園」。児童館とは運動量が比較にならない。わんたろうは幼稚園児や小学生に平気で紛れ込んでしまう。赤い「フェアレディZ」が大好きで、自転車は苦手なままだ。
父は時々そうなるように児童に侮られ、遊び相手にされたが、それは実にラッキーなことである。
16時。わんたろうに疲労が見えたあたりで休憩に誘い、公園から脱出。成田東方面へ迂回して南阿佐ヶ谷から帰路。なぜか、空が広く見える。視界良好。近隣に高いビルがなくて、路地が広ければそういうことになるのは当たり前だが、杉並あたりで空が広く見える路地というのはめったにないのだ。わんたろうは空を見上げて、「ひこーきみえゆ、くもうごいてゆ」と言っていた。わんたろうよ、いつかきっと夕焼けと虹と星空をとりもどそう。
ほどなく、わんたろうはこっくりして車上入眠。父は帰宅後にマルメラードフの葬儀話きれぎれ読み、発泡酒でだらけ。思えば亡父の葬儀もこのようなものであったか。
「お別れはすぐに済んでしまった。いつものようななにげない朝は、知らん顔してボクを起こした」(RCサクセション「ヒッピーに捧ぐ」)。
葬式に酒を飲みに来るだけのヤツもいれば、つき合い上やむなく来るだけのヤツもいる。儀礼を学ぶために来るヤツもいる。後日もっと大物の「本番」でしくじらないために。マルメラードフの女房が勝手にやりたければやるだろうが、死人にとってはそんなことどうでもいいのだ。葬儀の指示出すようなことになんの意味もない。
思えば父は、兄弟の多い母方の親戚の集いで、Kオジとよく酒を酌みかわしていた。小学校の用務員だったKオジは職業差別の対象になっていたし、他の親戚は並んで坐ることすら拒んでいたかもしれない。けれど、父はそういうKオジと酒杯をやったりとったりしていて楽しそうだったし、私はそういう父の姿を見るのが好きだった。幼児期の私にとって、Kオジは野卑でけっして親しみやすい存在ではなかったが、他のオジオバのように「おとなぶった」気配もなかった。
私の父はそういうことを機敏に感じていたのかもしれないし、ほんとうのところはよくわからないままだが、適度に酔うとなかなかいい感じであり、またシラフのときでも酔うた感じをうまく出しているときがあり、晩年は幼児の相手をするのがうまかったらしい。私はそういう父に、今もかなわない気がする。
思えば、ドストにしろ吉本三部作にしろ清志郎にしろ北野武にしろ、私は20〜30年前をさかのぼろうとしている。
「危険はつきものだしさ、人生なんていいんだよ、別に(笑)。どうなったって(笑)。またやり直しゃいんだ。」
(ロッキング・オン特別号、「忌野清志郎 1951-2009」62頁)
…ひとたび転落してみれば維持することのバカらしさくらいはわかる。元にもどろうともがいても、どうせ元にもどれないからそうなったのだとか、自業自得だとか思えるなら、はじめて「あきらめ」の意味くらいは実感するだろう。ズンドコでもどん底でも経験すれば、流浪の身であることに頼りなさをおぼえるだろうが、今までしがみついてきた会社やら友人関係やらにさほどの価値がないことだけは知るだろうし、それが苦いか辛いかなどはどうでもいいんだ。私たちは「超人生」の領域に入ったと思えるのか、ただオレは落魄した、他のヤツらはうまくやっているのに、悔しくてしょうがないと思っているのかで、天国と地獄の差があるはずだ。
6/21(日)、夏至。死体も腐る。長寿という幻想。
前夜。カツオの刺身はだれも喰わず。酒肴と化して自腹へ。嫁が購入した『Oh! RADIO』と『シングル・マン』聴きつつ。「君は空を飛ぶのが大好きだった」(「うわの空」)。空を飛ぶ練習はやっているか。
翌。『愛と非暴力』読。六波羅蜜の努力(精進)。
「「なんと自分は無力な、役立たずの人間だろう」と思うのは、人生の失敗のもとです。「自分にはこれができる」と強い心をもつことが大切です。ただし、これに慢心などの煩悩がまざり合っていてはいけません。」
「何をするにも、長期にわたるほどほどの(中庸の)努力が必要です。最初から多くのことを成しとげようして極端な努力をすると、たちまちのうちにすべてを放棄することになります。」214頁
…ひたすらなる身体の訓練がやがてどこへ行き着くのかを見極めようとすると、たいてい慢心や偏見や激しい思いこみにぶつかる。そこから先に慈悲や智慧が見えてくるような気がしない。「中庸」とはどこにあるのか。怠け癖のあるヤツがそれをくり返したり、少しも技量が向上しない言い訳のためにつかうのならやめたほうがいい。たとえばヨガ哲学に自分を馴致させようとしたいなら、とことんまでやればいい。いつまでも片手間でできるなりわいなどない。趣味なら趣味としてやればいい。
『サンデー・ジャポン』は「脳死は人の死か?」のような話題で、これには「臓器移植」問題がからんでいる。延命技術が進歩したことは確かだが、「平均寿命70ウン才」というのは、ほんとうの幸福とどの程度かかわっているのか。成熟するために必要な時間はどれくらいなのか。それは死の側(彼岸)から時間をさかのぼることにあるのではないか。
DVD『赤ひげ』途中まで見て、神田へ。外は雨。
「老病死」を間近に見て愚蒙から解放されるだれかもいれば、ひたすら「美と若さと健康」を追求して勘違いしたままのだれかもいる。「変身願望」が内か外かの違いがあるだけで、どいつもこいつも私もあなたも「勘違いしたバカヤロー」だと、罵っておくか。私たちは死に際で智慧に近づくのか、ひたすらオロオロするのか。生きているうちにオロオロすればいいのに。そういうことを隠さなければいいのに。「また一歩成長しました」とだけ言いたいのだろう。…べべん、べん、べん、
たけきものもー、ついにはー、「ホルモンとビール」。
べべん、べん、べん、(ooh, my soul style, I love U.)べべん、べん、べん、
死ぬのが怖いとか、ジジババになりたくないとか、ただそれだけならそれだけだと表明するか。埋葬されても土から這い出るつもりだとか、オレはgunで死にたいとか、野垂れ死にしたいとか、ディズニー・ランドに行ってから死にたいとか、ソープランドに行くとか、ソープランドで働いてみたいとか、死ぬ前に一度でいいから粉飾の気配を一切なくしてほんとうの気持ちを表明したいとか、そういうことはあるだろう。
一度自分を葬るように、「実は私はこれこれこういうタイプの変態です」と、あなたが告白してください。らいなうっ。


