2009年11月08日

ハロー憂愁。09.10.31(土)。

10/31(土)。前夜。湯豆腐とビールで晩食しながら、祖父母との見学話。そういえばポケモンの放映が終わると聞いたときに、園長先生が「あんなもんは早く終わればいい。子どもの頭の中はポケモンだらけだ」とおっしゃっていたことを想い出した。私はすべて同意するわけでもないが、こういう辛らつな同時代批判をいうだれかには強いシンパシーを感じる。

朝。祖母の手作りヒレカツと嫁の手作り揚げポテトでめし。ヒレカツはとうちゃんが朝昼で喰いきった。なんでそれほど喰うのか。無為徒食。

10時の体操クラブへ向かうときにスカイ父子と遭遇。
「特に行き先が決まっていないのなら一度見学に」と誘ったが、駐輪場に着いた頃にスカイ君の気配があやしくなった。クラスの前で別れようとしたとき、行き先が「交通公園」だと口を滑らせたのがまずかった。今度はわんたろうが「たいそういかない、こうえんいくよ」と愚図りだし、どうにも手がつけられない。ぎりぎりまで粘ったが、無理矢理連れ込むほど気概がない。助け船もない。どこかのおかあさんは怖い顔をして知らんぷりしている。ああ、つらい。

わかったよわんたろう、今日はサボることにしよう、でも靴だけは履き替えていこう、だって今朝おまえが選んだのは古い靴でサイズが小さすぎるだろう、体操クラブならともかく、そのまま公園に行けば足が痛くなるだけだ。

しかしわんたろうは聞く耳を持たず、あっちいくよこっちいくよと指図して自転車はどんどん南へ、途方に暮れて南方ではぐれて。

南荻窪2丁目で郷土資料に載っていた何某美作氏の邸宅を発見した。庭にケヤキの巨木があるんだ、わんたろう、見てみよ、あの偉容を、すごいだろう、とうちゃんは人間づきあいは苦手だが、巨木を見るのは好きなんだよ、

環八へ出たが、もう少し下ると五日市街道だ、うーむ、しかし靴を履き替えないと纏足になってしまう、北へいくんだとて環八のぼる川南あたりで頭痛喘息きざし、ガソリン自動車の時代はもう終わりだ、テレポーテーションか、さもなくば水牛・どんきーなどを使役するのはどうか、ああ南無三、せめて乳幼児を救っておくれ、オレはビョーキだ、くるくるぱーだ、

帰宅。靴を履き替えたのはいいが、今度はサイズのでかい青いサンダルを選ぶので、わんたろう、それは大きいからやめようよ、というがなんとしても聞かず、窮屈よりはマシだろうと言い訳して公園へ。

枯れ葉よ、枯れ葉よ、なぜ抜け毛のようにさみしくさせるのか。ぷ、ぷっぷくぷぅー(マイルス)。

善福寺緑地は枯れ葉だらけであり、垣根の垣根の曲がり角では焚き火をしたり、火宅では焼き芋喰って屁をこいてガス自殺する孤独なご老人がいたり、路地裏では放火したりパンツ泥棒や結婚活動詐欺をする不逞の輩もいるのだろうか、実にもってけったいなことである。

公園にて。
「カミさんがストレスで参っちゃって」という週末パパもいる、ああつらい、だれもが幸福になるにはどうしたらいいのだろう、この時代は不安と緊張だらけだ、そうかと思えばバカ笑いやバカ喰いだ、ああつらい、どうして幼児教育とか保育の重要性をもっと見直そうとしないのだろうか、おとなになったら忘れたのか、老人になったらどうなのか、壮年者よ、子どもらが今の私たちの年齢になったとき、自分がどうなっているのかくらいはしっかり想像できているのか、

私はヒレカツが主要成分の屁をこきながら考えていた。空は青かった。

午後。いろいろ苦心惨憺して親子ヨガへ。
はじめてのお子様がいらっしゃいまして、先生に向かって「おもしろくなければわたしはやらない」といいました、ああかわいげのない糞生意気なガキであるものだ、しかし、そういうことはなんで起きるかといえば、日頃幼稚園でつまらないことを強要されているからであろうし、子どもにはなんの悪気もないのである、ところでT先生はさすがに老練であるから、女児に「おもしろいかどうかは人それぞれだからわからないけどね、やってみようね」というようなことをおっしゃって、なかなか面白い「人間双六」のようなゲームをしたところ、偶然にもその女児が一等賞だったからなのかどうかは知らないが、女児はご機嫌だった。

さて。ふつうの幼稚園はこのようなとき、どれほど対処できるのだろうか、心もとないのである。つまり、基本的には遊び場を提供しているだけか、号令に従わせるだけかが教育手法の二本柱であり、問題児がいれば、ヒステリックに叫ぶ、泣く、怒る、子どもを排除する、徹底的に無視する、周囲に対して「あの子はダメな子だ」という印象づけをする、園長先生に泣きつく、というようなさまざまな謀略を駆使して、「ダメな子」をソフトにハードに駆逐するのではないか、

けれどT先生はボサツの域であるから、私たちのような父母世代とちがって実に根気強いのだ、見事な人間力である、やはり自分なりに鍛えてきた60才以上の人間は力がちがう、私は感嘆し、ケツの穴をぎゅっとしめて、屁をこらえたのである、ぷ、ぷっぷくぷぅ。

帰路。駅前のパン屋でわんたろうと軽食。先週同様「バスで帰る」というから、中杉通りでバスに乗るが、混んでいたため乗った途端に愚図りだし、あっちこっちと指図されて右往左往した挙げ句に運転席の近くで落着。膝立ちでダッコしていたら入眠。

わるかった、とうちゃんはどこかしら足りないところがある、ひとつは友だちがいないことだ、だからおまえにさみしい想いをさせてしまうことが多いのだ、そしてとうちゃんに仕事がないことは、おまえの恥になるのかもしれないと思うたびに、ブログやミクシイに書いている場合じゃないだろうと思うのだが、いかんせん無能である、

秋の心とは、「愁」と書くのであるか、

とうちゃん、「かきかきのおしごと」してるんだよね、とうちゃん、まさか「ブログ野郎」じゃないよね?

しらんぷりちゃらんけ、ほーい、うぽほえ。
しらんぷりちゃらんけ、ほーい、うぽほえ。

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フォト:リンガのごたる南荻窪の巨木
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2009年11月06日

そんなオヤジのひとりごと。09.10.30(金)。

10/30(金)。 前夜。ホッピーと湯豆腐で晩酌しながら、わんたろうのリクエストに応え、教育テレビ「みいつけた」主題歌をくり返し歌唱。ついでに増位山の「そんな女のひとりごと」も歌ったが、これは不評だった。トータス松本を紅白に。「アンパンマンたいそう」も紅白に。

夜半。わんたろうが「おみずのむ」というので、鉱泉水を探したが見あたらず、「どこにあるのか」と聞いたつもりだったが、「今どうしても必要なのか、出すのが大変なんだ」と嫁が猛々しく応答したため、「いや別に聞いただけで、出せとは言っていない」と抗弁したつもりだったが、「アンタの言い方はいつでもきつい、責められているようだ」といいながら納戸を探って取り出したのは発泡水で、「あのね、わんたろうが飲みたいのは水だよ」とかなんとか口出ししたのはまずかったのだろう。「死の棘」が天から降りそそいできた。しかし、驚くべきことにわんたろうはめげるどころか気丈であり、「とうちゃん、あやまりなさい、ちぃちゃんにごめんなさいっていいなさい」と強い口調でさとすではないか。…うーむ。あい、under スタンド!(我、忍耐の下に)

翌。『三昧王経1』は「深遠なる法をうけいれるための忍耐」。…スタンド! (スライ)しがない中年男よ、耐えるんだ。

朝。手作りコロッケとポテトめしやら喰い、祖父母同伴で「寺子屋チェ」へ。再度見学。徒歩25分。

古生代から新生代までの横長の図版をタテに数頁に区分して、1頁ごとにぬり絵させる手作り教材などはすばらしい出来映えだと感心した。先生たちは園児への目配りが行き届いており、集中が切れた子どもには絶妙のタイミングで声を掛けている。私にはとうてい真似のできないことだし、子どもらが先生たちを信頼していることは明らかだと感じた。外遊びでは、年長児が年少児を守護するように率先して手をつなぐ。

迂闊にも私が弁当を持参しなかったため、ひるどきに退散。去り際に、「遠出の時も見てみたい」旨を伝えると、「アンタ、何をこれ以上見たいんや、そんなの入ったらなんぼでも行けるわ」と園長先生に一喝され、「いや別にそういうわけでもないのですが」とかなんとか、しどろもどろに答えたりして顔面を痙攣させたが、「このように親を叱るくらい迫力がある先生に出会うことはきょうびありえないことである、やはり赤ひげであろう」という確信を深めたのだ。

帰路。聞きかじっただけのだいたいのカリキュラムを祖父母に説明し、「もう3才ですから、私がひとりで毎日相手をするよりも、ここに入園したほうがいいと思っています」というと、「そうだそうだ、まったくだ」と強く合意していた。…あじゃぱー、そんなにアレですか、たよりないですか。そうですね。

なんだか肩身が狭いものだなぁ。
けれど、わんたろうが長い道中にダッコをせがんでくるのはとうちゃんなのだなぁ、ありがたいものだなぁ、とうちゃんは再生するぞ、おまえといっしょなら苦労もいとわないぞ、やることはやるぞー。とうちゃんもいっしょに成長するぞー。

帰宅して昼食。わんたろうは喰わず。口うるさいことをほとんどいわないから、私と同じ放蕩児になることを責められているのか。猛烈な教育やしつけは緊張を高くするだけではないのか。

午後。真新しいアディダスのサッカーボール持参して公園へ。しかし途中で買い食い。さらに路地で愚図って言うこと聞かず。「あおいぼーるがいい、おもちゃやにいくよ」というので、「ねえ、こないだサッカーボール買うときにとうちゃんは青いのと白いのとどっちがいいか聞いたよね、そしてなんにも答えなかったし、いらないっていってたよね、(わかっているんだよ、キミは鉄道の玩具に気をそらされていて、サッカーボールのことは忘れていたんだろう、だから白も青も選ぶ気持になれなかったのだろう)」。

私たちは言語の意味を超えて話しているときがある。少なくとも私は勝手にそう思っている。ほんとうは路上で坐りこんだまま言うことを聞かなくなったわんたろうは、サッカーボールの色の選択が自分の思い通りでなかったことを不満に思っているのではない。

スタンド! ねばるんだ、とうちゃんよ、息子よ。偏奇の眼で見られることを気にかけるな。

うねりあるいて公園めぐり。漫才師とダンサー志望の若人がそれぞれ自主練習している。えくせれんと。自分のやりたいことを精一杯やるがいい。おじちゃんもがんばるぞぅ。

夕暮れ時、毎度意地悪される男児に遭遇。わんたろうは親愛を示しているのだが、その子は強く拒絶する。いい子だ。スタンド!…いやなこった。


オレをここから出してくれ、
見よ、オレの水上歩行を、
ヤツらに箱詰めにされる前の
(イギー・ポップ、「セイヴァー」勝手訳)


「双子と左利きが増えているような気がする」ということを、寺子屋の先生に話してみたら、確かにそうだと答えてくれた。

天地無用にあらず。


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フォト:本天沼の蓮華寺、ピラカンサス(というらしい)

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親がパンツ泥棒でも子は育つ。09.10.29(木)。

10/29(木)。前夜。NHK『ブラタモリ』録画見つつ湯豆腐でホッピー晩酌。散歩番組は好きだ。

就寝前。仏前でお祈り。わんたろうは「たろくんと、ちぃちゃんと、とうちゃんのかきかきの…(ぶつぶつ)」とかなんとか言っていたが、とうちゃんの仕事を心配してくれているのか。ありがたや。
外遊びなし長時間昼寝のため容易に入眠せず。それどころか大暴れ。嫁は暴発。無能のとうちゃんは電信柱の影に隠れるアキコ姉ちゃんのように見守るだけ。

翌。起床困難。外は曇天から秋晴れ。けんちん汁うどん給食、これはうまいものだった。うどんから手作りらしい。雑事の合間に『アカシャ光の叡智』できるだけ読みすすめ。

「直線的な時間内で後ろを振り返ることは、未来の形成を助けます。というのも、それによって過去を癒すことができるからです。」269頁

…直前には「そしてこの行為は、実質的に過去の出来事を別の結果に終わらせることになります」と書いてある。間違いを承知で勝手にいうなら、二十歳の頃に吉本隆明『心的現象論序説』を読んで以来、「実人生の問題を解くカギはおおむね乳幼児期に潜んでいるのだ」と思うようになった。少なくとも疎外感や罪悪感なんかが自分の人生のどこに起点があるのかを探れば、たいていは乳幼児期にヒントがあるだろうし、それ以上さかのぼるのは常人には困難だ。そしてこのような内的遡行作業は、自分の中にある「暗黒面」から目を背けていると、けっしてうまくいかない。この世の判断基準をすべてチャラにするくらいできあいの善悪の秩序を解体してしまわなければ、またぞろ幼児期のように罪悪感にとらわれ、挙げ句に虚言やら言い訳で自分を取り繕うだけだ。
恨みつらみや怒りを、内的には完全に吐き出しきっている状態に至らなければ、他者へのゆるしや、過去への癒しには行き着かない。私たちは幼児期と同じように、イヤなことを忘れたりイヤな他人を無視することで安易に自己救済するだけだ。それではほんとうの安寧は得られない。自分をごまかしているようでは、「自己愛」は歪んだままだ。けれど自分の「暗黒面」にまで突っ込むことができるようになれば、そのひとはほんとうの「自己愛」にめざめるかもしれない。


アンタはマスクを被ってる
アンタはマスクを被ってる
アンタはマスクを被ってる

神経過敏でスマートで知ったかぶりの大卒野郎
即座にコメントする批評家どもは逆上している

どこに魂が?
どこに愛が?
どこに己が?
(イギー・ポップ、「MASK」、勝手訳)

だから文学作品を読むほうがいい。あるいはすぐれたロック作品を聴くといい。宗教関係の著作には、必ずどこかに「跳び越し」(吉本翁)と「自己欺瞞」がまとわりついている。それを検証してみたいし、教祖らがほんとうに伝えようとしたことをできるかぎり選別してみたい。



午前。児童館へ。近隣母と幼稚園話。3才児らは天空で遊戯。子どもといるほうがいいな。

午後。「アンパンマンたいそう」歌いながら、託児付きヨガへ。
長老たちが山歩きとスポーツクラブのランニングマシーンを比較して、やはり山歩きがいいというようなことを話していた。まったくもって、ランニングマシーンとはハツカネズミがくるくる回る遊具のようなものであり、私は嫌いだから、「そうだそうだ、宇宙飛行士ならともかく、あんなものでテレビ見ながら走ったフリしてなんになる、野山を駆け回れとは思わないが、犬の散歩でもしながら路地裏でパンツ泥棒でもしたほうがよほどマシだ」なんちゅうことを考えた。

シュンちゃん母子と「交通公園」へ。グループ交際というのでしょうか。またしても幼稚園話。「オレ様が子どもだったら、この幼稚園を選ぶぞ」という直観のようなものが大事ぞね。かくのごとく、パンツ泥棒は思ったのである。

オレはパンツを被っていた
オレはパンツを被っていた
オレはパンツを被っていた

そして行間で語ろうとしていた
盗んだパンツの臭いをかぐヤツと
盗んだバイクで走り出すヤツは
どっちがえらいのかなんて
わからねぇだろう

盗んだ紙おむつで走り出す
行き先もない老人が時速150キロで
盗んだバイクで走る15才の少年を
抜き去るとき入れ歯がはずれて飛んで
少年の額を咬んだとき「スピード、スピード」
アイルトン・セナが見えたのか
少年の第三の眼が開いた

「ぎゃあてぇぎゃあてぇ、坊主おまえもか」と、空中のパンツ老人いへり。

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フォト:わんたろう撮影
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2009年11月04日

親はサイテーでも子は育つが、子どもはしんどい。09.10.28(水)。

10/28(水)。前夜。不良の親は遅くに子連れで近隣の居酒屋へ。夕方わんたろうが行きたがった教会通りの『あ麺んぼう』。

自慢の「刺し盛り2人前1360円」は確かに豪勢だが、「こんなにたくさん喰えない」と思って、一気に気持が萎えた。ネタは新鮮でたいへんおいしいのだが、いかんせん量が多く、残さずに食べようと気張るあまりにゆっくりできない。事情を知らずにわんたろう用の焼きうどんを頼んだが、わんたろうは座敷童のように走り回っているだけ。川エビの唐揚げと、お通しとサービスポテトがじゃんじゃん出てきた。サービスも味も雰囲気も素晴らしい店だが、もっと早い時間にだれかと連れだって来よう。長屋の忘年会をここでやるのもいい。

帰宅。わんたろうは眠がって入浴せず。遅い就寝。親としてサイテーだろう。たまに盛り場に行きたかっただけだが。

翌。嫁が休日のため、とうちゃんは早朝から悪夢をみつづける。雨後の竹の子のように男根がにょきにょきするホモセクシュアルな夢。やはり愛人をもつべきだろうか。たまには淫欲にも耽ってみたいものである。

9時過ぎに起床して、『三昧王経1』読。

「瓦礫を投げつけられ、杖で打たれても、賢者は彼らを打ちかえさない。無我という真理を耐え忍んでうけいれることに安住しているものには、怒りとか荒々しさとか慢心は無縁なものである。」144頁

…シャーンティデーヴァ本にも類似の記述がある。
しかし私たち凡夫がすぐに真似ようとすると、「絶対的な跳び越し」(吉本翁)にしかならないだろう。はてさて、瓦礫を投げつけられたらどうするべえか。小さい頃、私の母親はよく箒の柄で本気でぶったが、「柄じゃなくて毛のほうでぶてばいいじゃないか」と懇願しても、聞き入れられなかった。耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍んでいたら、十代の途中から暴発するようになった。

盗んだパンツで走り出す。行き先も見えず。おとなたちはいつもオレ様をバイキンだとののしるか、ああしろこうしろと口うるさく干渉するだけだった。アニーよ銃をとれ。ばきゅんばきゅん。おまえなんかしんじゃえ。(尾崎豊、のような)

「ほんとうのことを言いなさい、アンタがやったんでしょ、ほんとうのこと言ったら、おかあさんぶたないから」
「ほんとう? …じゃあいうけど、あれはね、近所のシンちゃんといっしょにやったんだよ」
「やっぱりおまえがやったのか、うーむゆるせん、世間体があるし、家族の恥であろう、こうしてくれるわー、(ビシンバシン!)」
「かあちゃん、話がちがうじゃねぇ…」
「うるさい、おまえが悪い、(ズコンバコン)」

盗んだパンツで走り出す。行き先も見えず。おとなたちは「白状しろ、そしたら罪を軽くしてやる」と言って、いつもオレをだました。なにが「世間体」だバカヤロー。少年少女よ、嘘をつけ。おとなにほんとうのことをいってもどうにもならない。どうせ新聞やテレビはなにをいっても「芝居がかっている」とか、「泣くのがうますぎる」とかケチをつけるだけだ。

さて。
産経新聞で、芸術家の草間弥生(表記不能)がナントカ勲章をとったらしい記事があった。草間氏曰く、「毎日8時間は描いています。アイデアがどんどん出てきて、寝るのが惜しい。200歳まで生きて、もっと素晴らしい作品を作りたい」。

…「天才領域」に入っているひとはこのようなものだろう。完全に解放されている感じがする。「起きるのが億劫」という私は、現在できるだけ活動時間をなくそうとしている。けれど最悪の状態をまぬがれるために、そうするしかないのかもしれない。

嫁の手作り大豆コロッケめしなど喰うて、3人そろって体操クラブへ。いい天気。

体操中、『超入門アカシックレコード』(ゲリー・ボーネル著、大野百合子訳、5次元文庫)読了。実践メニューの呼吸では、息を止めないらしい。またしても混乱するが、混乱こそチャンスだと、イーライがいってなかったか。確かに止息は忍耐の行ではあるが、リラックスからはほどとおい。

帰路。些細なことで家族不和。ヘソを曲げたらしい嫁はいつのまにかどこかにいなくなっていた。「ちいちゃんどこいったの」、「うーん、わからないね、いなくなっちゃったね」、「どうしていなくなっちゃったの」、「たぶん怒ってるんだろうね」。

わんたろうは自転車で眠ってしまった。夕べ遅かったからだろうが、イヤなことは眠って忘れてしまうがいい。だって3才児になにができる。

盗んだパンツをほっかむり
不機嫌な母親はどこぞに雲隠れ
とうちゃんは自殺願望に揺れる
ああ無情、3才児なのに

盗んだパンツではみ出した
黄金の玉をぶらさげなら
オレがいるからダイジョウブ
という、てておやは無職


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フォト1:豪勢な刺身盛り


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フォト2:産経新聞より、草間弥生氏
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鳩が鳴くとき。09.10.27(火)。

10.27(火)。前夜、雨やまず。しんどくなって筆記は切り上げ、「ウルトラマンカルタ」遊びと晩酌。

翌。祖父母との「ひらけモンチッチ、チェゲバーラ」幼稚園見学はなんだかんだで延期。わんたろうはポテト手づかみ喰い。とうちゃんはただ自分ひとりのために目玉焼きをこさえて、タバスコかけて喰うべし。嫁が作った珍品「揚げハンバーグ」はわんたろうが喰わないので、とうちゃんが味見。やはり畜肉は美味である。

わんたろうは近頃よく歌い、よく踊る。「ぱわわっぷ」(作、中西圭三:表記要確認)でぴょんぴょんダンス。「ストレッチマン」と「わくわくさん」(これらすべて教育テレビ)はことのほかお気に入りなのだろう。とうちゃんは保育を手抜きできるからありがたや、たたがたや。
録画した『ウルトラマンA』はハトの怪獣が登場。わんたろうは「がおがお」叫んでいたが、私はハトが昭和40年代には家禽としてけっこう流行っていて、いつからか病原菌の元だと噂されてから、都市部で野生化したのかもしれないと愚考していた。『伝書鳩ホッピー』とかいうアニメもあったし、歌手の新沼ケンジはハト好きで有名だった。それが今や、「ハトの糞害」だ。ぽっぽっぽ。昔は近所の藪にキジがいたんだぜ。リスもいたんだぜ。千葉市の話だぜ。

ゲリー本(『アカシャ光の叡智』)読。

「人間には自分自身を“愛す”能力がある。これが、人間を動物と違う存在にしている。真の自己愛の状態の中では、変化は常に発生している。この愛すなわち、自己に対する果てしない思いやりこそが、真の錬金術なのだよ。」150頁

…「自己愛」こそが最大のテーマだと思いながら書いている。もし「自己愛」がなんらの干渉や矯正を受けず、障害もなくすこやかに育まれているなら、その子はほとんど問題なく身心を発達させるのではないか。けれど私たちは自分に嘘をつくことを習慣化することによって自己正当化したり、反対に自己嫌悪から離れられずに罪悪感や自分より恵まれた他者への怨念のような感情から解放されないのではないか。

「真の自己愛」は相当にむずかしいのだろう。
自分の「暗黒面」を曝す覚悟もなくて、人前でスピーチしたりブログを書いているようでは、私たちの「自己愛」は歪んだままだ。それは『オレ様、LOVE』ではあろうが、厚化粧したりカツラでハゲを隠したりした挙げ句の「偽りの自己愛」だから、内心はびくびくしているだけだ。

そらあワイはアホや。(「ナニワ恋しぐれ」風)
そやけどな、ぴーちくぱーちくいいことばかり言ったりせんでぇー。ぽっぽっぽー。どこぞの書き手とはちがうでぇー。ぽっぽっぽー。ワイは自殺願望者やうつ病気味のだれかれに向けて書いているんや。あんさんが「自己愛」に目覚めることが、いわばワイの最大のテーマや。「真の自己愛」や。「自己に対する果てしない思いやり」なんちゅうことを、ワイらはこつこつと養ってみようではないか。あんさんはきっとユニークや。奇人変人は鬱屈するな。「劣っている」と見なされたことこそが、あんさんの面白げな特徴だべ。


午後。ゴム体操とヨガ。
どこぞのおかあさんは明るい。「近頃子どもがぜんぜん言うこと聞かない」というおかあさんは正直できらきら明るい。ゲリー少年なら、その人を包んでいる感情の色彩が見えるのだろうが、私には何も見えず、ただふんわりした感じが伝わってくるだけ。

終えて。路地裏散策。無人の「阿佐ヶ谷南公園」で遊び。秋晴れの空に上弦の月。カラスが強風にのって滑空している。かぁかぁ。どうして公園にだれもいないのだろう。子どもらが「学童クラブ」とかいうのに所属しているからそうなるのか。それとも塾通いがあるからなのか。「教育機関」はキミたちをどの程度たくましくしているのか。子どもの歓声が聞こえない公園や路地裏はなんてさみしいのだろう。犬の散歩は禁止で、野良猫は処分されるような都市はいったいだれを生かそうというのだろう。ぽっぽっぽ。

日暮れ。無人公園ハシゴして教会通りを歩いていると、上弦の月が輝きはじめた。

宵。うろうろした果てに、西友のスポーツ用品店でサッカーボール購入。さらに玩具店で、クリスマスプレゼントの下見しつつ、「KUMON(公文)」の玩具は「ピタゴラスイッチ」と意匠が似通っているかもしれないとかなんとか思う。屋上でメダルゲームに興じたのは誕生日以来だったが、またしても「大当たり」。メダルがじゃらじゃら。カジノの興奮。閉店だよ、わんたろう。とうちゃんはちかれたび。

夜。近頃筆記は長続きせず。知力体力ともになし。『トトロ』の続き見ながらダラダラ。

ところで鑑賞者はときどき幼児の視線で物語を見ることになる。そういう視点の低さを保っているシーンが度々出てくる。「まっくろくろすけ」をつかまえたメイがおばあちゃんのお尻にぶつかるシーンとか。私は子どもの頃に人ごみでよく迷子になった。違うひとについていったこともある。身長が100センチ前後の子どもには、おとなの尻あたりしか見えていないからだ。そのかわりに地面には近かったから、地上の観察能力はおとなよりはるかに高い。

トトロとはじめて会ったあとに「メイ、うそついていないよ」という訴えを、おとうさんが「ウソついているとは思っていないよ、ただいつでも会えるとは限らないからね」とさとすシーンや、日頃はおとなびている姉のサツキが「おかあさん死んじゃったらどうしよう」といって、婆ちゃんにしがみつくシーンなどは秀逸だ。

この作品では、おとなたちが子どもの心象をおおむね理解してる。全体に調和している。そして、だからこそ不満でもあるのだが、それは私の根性が歪んでいるからでもあろう。けれど現実は、理解してくれないおとなのほうが圧倒的に多いのだ。そして現在親であるおとなたちも、このファンタジーにずいぶん依存して、もっとシビアな現実を忘却しようとしていないか。

私たちは幼児期の不安こそを想い出したらいいのに。壮年期の安泰ぶりが不確かなものであることを想像するヒントにはなるだろうに。
オウムの信者さんたちはよく「潜在意識につっこむ」という言い方をしていたが、その手前で乳幼児期をしっかりふりかえって、不安や焦燥感の根源が今生のどのあたりにあるのかを探ってみればいいと、私は思っていた。それを怠ってしまうと、いきなりあの世に「跳び越し」をかけることになる。彼らは吉本隆明が「尊師」を評価した文章は読むが、代表作である『心的現象論序説』を読もうとしない。私にはそれが不思議でならなかった。要するにだれもが同じように、自分にとって都合のいい言説にしか飛びつかない。

私たちが「泣き」に入ったり、失調したりすることをほんとうに癒していくためには、いきなり「体外離脱」するのではなく、自分の嘆きや怒りを放出してしまうことにはじまりがあるのではないか。あるいは自己批判すらできないで、どうしてほんとうの「自己愛」に目覚めようというのか。ぽっぽっぽ。

…タイトルはプリンス。(日本題は『ビートに抱かれて』)

もし幼少期に父母に抱かれたあたたかみを欠いたまま、ひたすら安寧をめざすなら、自分にウソをつきとおすクセを放置したことになるのではないか。正しかろうことを言いつづけたりして。

ぽっぽっぽ、ヒトぽっぽ
ビートに抱かれて覚醒だ
人間再生ぷろじぇくと

れっつごー、くれいじー

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2009年11月02日

チェリーボーイは錯乱坊。09.10.25-26。

10/25(日)。前夜。賢治さん読みながら興奮。

「あなたのすきとほつたほんたうのたべものになることを、どんなにねがふかわかりません。」

…糞神は怒っている。2012年にどうなるか知らないが、透きとおった食べ物によって生きるように人類が進化すればいい。二酸化炭素を吸って、光合成すればいい。なあほな。

明け方夢見。ヒンドゥー教の儀式で礼拝のやり方がちがうらしく、指導者に矯正される、うるせえなあと思いながらまわりを見渡すと、数人の顔見知りがいたような気がするが、忘れた。

10時半起動。サンマ、シャケ皮、とろこぶつゆ。いい加減な健康体操して、わんたろうは嫁に任せて、ゲリー本きれぎれ読。

「何かと戦うことは、それに現実性を与えること。あなたは何かと戦っているとき、それを自分と同一視しています。そして自分を同一視するものを、あなたは出現させます。自分を小さいと感じたり、寂しいと感じたりすることを、怖れないことです。あなたの最大の強さは、あなたの最大の弱さから生まれてくるのですから。」(『アカシャ光の叡智』135頁)

…「あなたの最大の強さは、あなたの最大の弱さから生まれてくる」ということをくり返してみたい。どんどん次へ。

午後。久しぶりのチベット語講座は少人数。

宵。嫁の知人が3人来訪していて、わんたろうはずいぶん遊んでもらったようだ。私も若いエキスを吸うべく、筆記中断。


10/26(月)。終日雨。けっこう寒い。カメもザリガニも身動きしない。

前夜。ヤドカリは手玉のように弄ばれた。災難であろう。しかし若人はいずれも優しげであり、「勇気の鈴がリンリンリン」なのかもしれん。一方私はどうか。バイキン的ではないか。さればとて、なんの脈絡もないが賢治さんの文章を読んでもらう。それはこげな文章である。

「わたしたちは、氷砂糖をほしいくらゐもたないでも、きれいにすきとほつた風をたべ、桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます。/またわたくしは、はたけや森の中で、ひどいぼろぼろのきものが、いちばんすばらしいびろうどや羅紗や、宝石いりのきものに、かはつてゐるのをたびたび見ました。/わたくしは、さういふきれいなたべものやきものをすきです。」
(『注文の多い料理店(序)』の冒頭、ちくま文庫『宮沢賢治全集 8』)

「あなたのすきとほつたほんとうのたべもの」とはなんだろう?
絹豆腐かな、コシヒカリかな、冷麺かな、それとも永遠の真理かな、善悪の彼岸かな。ああ、願わくば人類が光合成できるようにならんことを。

翌。眠気やまず。ムチ打って起動。『三昧王経1』読。

「…その称讃に追従するならば、彼は仏の知恵を修練した菩薩とは言えない。」141頁

…、あーうー、わたしをほめてちょうだいな。否。たまにはほめてちょうだいな。否。やはりなんといっても罵倒してくださいな、毛皮のヴィーナスよ。「抜け毛のめっかち、貴様好色のうえに怠け者であろう、挙げ句にアホダラ経を唱えるであろう」、ムチでぺしぺし。…そのようなことは、実に気色がいいであろう。サイコー、プシコー。

わんたろうは「フジッコ」のこんぶ、とうふなどをめずらしく喰う。さらに親指を立てて「おいしいねー」だとさ。近頃やるな、おぬし。もう給食を選ぶ必要はなさそうだな、と、何度目か思う。

雨はやむ気配なし。ならばとて。保存してあった『めばえ』付録の「アンパンマン・カルタ」などで家内遊び。「け」=「けんかはやめようばいきんまん」とか、「て」=「てをよくあらうよてんどんまん」などという、まったくもって幼稚な読み札をけっこう真剣に読みながら、「ああオレ様はなかなかやさしげなとうちゃんであるなぁ、けれどもわんたろうは集中力が持続しないものだなぁ、そういうところはふたおやも同じなのだなぁ」などと思ったり思わなかったりしつつ、終了してしまうと手持ち無沙汰であるから、「わんたろうよ、ウルトラマンAでも見るか」とか、「クレヨンしんちゃんはどうだ?」なんちゅうことを提案しては、できるだけ雨の中手抜き保育をして自分は読書に耽ろうという魂胆だったのだが、わんたろうはどこぞからおもちゃを引っ張り出してきて、「これやぅよ」というのは舶来の『きかんしゃトーマス』であり、それはいつぞや近隣のグレート・ブリテン人の紳士から頂いた物品である。ややこしや、ややこしや。説明書は紛失したため、箱の絵柄を見ながらそれらしく組み立て。英語と仏語と独語と蘭語とスペイン語で書いてある遊び方はなんとなくしかわからない。ついでに「メイド・イン・タイランド」。ならば、タイの恩人のために、なんとしてもやりとげねば。

ねばーぎぶあっぷ。私はややこしいおもちゃの組み立てをいつしか完了し、やれやれ一服。

「午前中はどうにかしのいだが、午後はどうするべ?」と考えた挙げ句、四谷三丁目の「おもちゃ美術館」へ。丸の内線でわんたろうは入眠したが、前進。きれぎれにゲリー本(『超入門アカシックレコード』)。

「コントロールされていると感じるもの、十分にリラックスすることを妨げるものがあれば、その習慣を変えていく必要があります。」269頁

…。(瞑想タイム)

上記について、なんとなくでも考えてみましょう。よくわからない罪悪感とか、恥辱感とか、「正しくあろう」という意志は、私たちをコントロールすることはあっても、ほんとうの意味でリラックスさせることはありますか。たとえば「八支則」や「八正道」はあなたを十分にリラックスさせていますか?

ぬれぬれの あつき血潮に ふれもみの
しゃぶりなめなめ 淫ら腰巻き

貸切「四谷ひろば」帰路。強風寒雨。

丸の内線荻窪駅のベンチでわんたろうにぶどうジュースを飲ませていたら、背後の車両に小学生が眠りこけているのが見えた。「この子は今乗車して休んでいるのかどうか」を少し考えて、そうではないと即座に結論したので、わんたろうを放置して電車内に入り小学生を起こそうとしたが、簡単に起きない。まるで気絶しているようだ。まさかゲリー少年のように飛んでいるのではなかろう。「終点だよー」と揺さぶったら、どうにか起きたが焦点が合わない様子の視点を定めた瞬間にはっとして、私の顔を一切見ることなく改札方向に去っていった。「あのこどうしたの、とうちゃん?」、 いつのまについてきたわんたろうが 言う。「低学年だろうに、ずいぶん疲れているみたいだったね、眠りこけていて起きなかったよ、まるで泥酔状態のオッチャンみたいだった」。

子どもたちが壊れかけている。
そこまでして優良(だと噂される)小学校に通学させたいのか。もっと安楽にしてあげればいいのに、道を説くキミ。

私はもう一度ベンチに座って、彼の幸福を祈りながら、わんたろうにゆっくりぶどうジュースを飲むようにすすめた。

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フォト:四谷ひろば
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2009年10月31日

抜け毛ブルース。09.10.24(土)。

10/24(土)。前夜。「老人力」に引き寄せられる。たのもしいオキナやオミナはけっこう身近にいるのか、どうか。夜鍋とホッピー。

翌。寝床でダラダラ、9時起動。『三昧王経1』に「純潔な生活」云々。せめて早起きするとか、タバコはやめるとか、できないものか。すでにカラダは拒否しているのではないか。おしゃぶりするめで代用したらどうか。だからあれほど母乳にしなさいといったのに。

四六時中子どもといると、喫煙習慣ほど厄介なものはない。アレルギー症状はおおむね改善するだろうし、眼精疲労や日中の眠気は酒をやめれば治るのではないか。とかなんとか。

サンマ焼いて朝飯準備。しかしわんたろうは白ごはんしか喰わず。ハンバーグとチキンカツの残りはとうちゃんが喰う。うまい。安価ビデオ『ダイナソー』再生中に掃除やら雑用。ブロックとカルタ遊び。ゲリー本「ビュイック・ドライバー」続編、『アカシャ光の叡智』きれぎれ読み。

「より素晴らしい冒険に歩を進めたいと願う人たちは、彼ら自身の選択によって、瞬く間に、そうするだろう。一方、ほかの人たちは、それまでの世界をもう一度たっぷりと体験する機会を与えられることになる。」61頁

…「それまでの世界をもう一度たっぷりと体験」したくないなら、今生で自殺するのをぎりぎりまで思いとどまって、とりあえずゲリー本を読んでみたらどうか。

午後。親子ヨガへ。わんたろうは昨日買った赤い靴をはいて歩きたいらしく、自転車に乗ってくれない。やむなく地下鉄で移動して、遅刻寸前。「わんたろう、早くしないとポニョポニョ体操に間に合わないよ」、「ええー、そうなのー」。私は先生考案の「ポニョ体操」や、ファミリー劇場の「大怪獣バトル体操」を普及したい。

終えて、阿佐ヶ谷ジャズ祭りを遠目に、「サンエトワール」なるパン屋での昼食はわんたろうご満悦。中杉通りでグズグズして言うこと聞かず。結局バスで帰路。

夕方の散歩はなし。「ねむいねむい」というわりに、近頃昼寝せず。ビデオ『となりのトトロ』見ながらダラダラ。途中だけの鑑賞だったが、宮崎作品はやはり圧倒的だ。メイちゃんと婆ちゃんがいい。

あるこーる
あるこーる
私は偏奇
あるこーる大好き
どんどん風狂
苦虫
蛆虫
疳の虫
ひとの道
外れて生きよう
友だちいない
憂い、いいな

あるこーる
あるこーる
私は陰気
あるこーる中毒
どんどん貧窮
糞道
泥道
曲がり道
ひとの道
いつかは目指して生きよう
抜け毛がはらはら
舞う、秋の夕陽に
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「赤ひげ幼稚園」を探して。09.10.23(金)。

10/23(金)。前夜。寺子屋というか私塾というか、少人数制不認可幼稚園の利点を力説しているうちに、園長先生と「赤ひげ」のイメージがかぶってきた。ならば「赤ひげ」を選ぶしかない。自分自身が不安がっているような経験の浅いだれかれに幼児教育を任せる気にはなれない。また、この人ならば子どもを任せられるし、親である私も関わることに嫌気をおぼえることがない。どこかの見学の時に、わんたろうが突然愚図りはじめたのは、言語外表現としての抵抗だったのかもしれない。「赤ひげ」幼稚園では終始ご機嫌だったことと思い合わせると、確信が深くなる。

翌。『三昧王経1』読。

「このように彼の名前はどこからかやってきたものではない。」132頁

…子どもの頃から自分の名前に違和感があった。長じてからもこの傾向は変わらず、ブログやミクシイで「へび」を名乗るようになったとき、それなりに開放感が生じた。けれど実名を隠すほどバレて困るような何ごともないし、しょっちゅう書くからには自分の氏素性を明かすべきだと思っていた。私たちはおおむね堂々としていればいい。恥じる機会はもっとちがうときにあるはずだ。

「…あるいは尊大ぶっている人々や傲慢な人々、そういう人々は、この仏のさとりを理解することができない。」133頁

…「仏のさとり」はともかく、「尊大ぶっている人々」は少しは恥じればいいし、一切自分の正体を明かそうとしないような人々は、ご自分の臆病さや恐怖心がなにごとに起因しているのかを探るヒントになるような文献を読んでみればいいのではないか。私たちは、自分に都合の悪いことを指摘された瞬間に、それを見なくなったり読まなくなったりする。そしてそういう恐れを抱いているひとが大多数を占めてくると、たとえば「待機児童」を問題視することが主調音になってくる。要するに不都合なことやイヤなことはすべて忘れているんだ。もし忘れていなければ、今の幼児教育や保育にもっと関心をもつはずだ。私たちはただ目の前のことを進めていればいいのか、それともちょっと昔やずっと昔のことをさかのぼることによって、はるかに先の未来を予感したり創造できると思えるのかどうかで、ずいぶんちがうのではないか。私は乳幼児とご老人のことを常日頃考えていないと、人間性はどんどん後退していくような気がしている。

アミーゴたちはどう思うだろうか?
どんな時代でも、壮年者には相当のパワーがあることに変わりはないだろう。だから小さな創造や、創造に向かうための破壊に関わってみればいいのではないか。なにを温存しておきたいのか。恥ずかしがっているだけなら、ちびっ子と変わらないじゃないか。

嫁の手作りハンバーグと豆腐入りチキンスープはまあまあ食べてくれた。とうちゃんはスープの残りとふりかけめし、梅干し。『トトロ』のビデオ途中まで見て、婆ちゃんを知恵者とすることに幾たびかの感銘をおぼえ、体操クラブへ。

宮崎駿作品の音楽はずいぶん幼児教育に取り入れられている。そしてまちがいなく一役果たしている。教育者らはずいぶんと依存しているだろうし、映画は最良の教材になっているかもしれない。声優の選択はすべて子役をベースにしているのかもしれない。たとえば『トトロ』での糸井重里のキャスティングは絶妙で、プロの声優ほど演技力はなく凡庸でも声のトーンや声のよさだけで優しさを醸し出している。さつきやメイの声が引き立つように「脇役」をこなしている。

見学中、母親たちは案の定というべきか、幼稚園話。エイトマン幼稚園は人気で、抽選があるらしい。なるほど。タロット占いでもしてみるか。とかなんとか思いつつ、体操ちらちら見ていたが、10数人の生徒に3人指導員がいて、けれどひとりが急な来客など別の対応に追われているときには2人になってしまう。眼が行き届かなくなっているのは明白で、まして15人以上をひとりの指導者が担当するのは常人には不可能だと思う。

「幼児教育は別物」という発想をもっていないと、園庭や園舎や周辺環境だけで幼稚園選びを間違えてしまうこともある。私たちは知恵者でもなんでもないが、一応年くったおとなだから、おとなの視線で見極めをしているだけだ。そこに「赤ひげ」のような人間力たくましい教育者のプロがいるのかどうかを見ようとしていない。

帰路。買い物はほとんどわんたろうが主導。「さんまかうよ」、「ぼっこぃかうよ(ブロッコリー買うよ)」。

わんたろうは満月の頃にいなくなったヤドカリを気にしているらしく、路上に落ちている石ころを拾いながら「やぉかぃさん、ふぁんぱえてゅかな(ヤドカリさんごはん食べてるかな)」のようなことをいう。石ころを見ると、確かにヤドカリに似ている。

夕方。嫁が実母と電話でやりとりしていて、幼稚園選びに迷いがあることを伝えると、「赤ひげにしなさい、絶対そっちがいいよ」と後押ししてくれたらしい。ありがたいことだ。

私は川崎のぼるの『てんとうむしの兄弟』とか、『巨人の星』の左門豊作の家庭を連想していたし、原初的な幼児教育機関とはおおむねこのようなものだろうという見当はついているつもりだったが、年長者でありご自身が教育者である嫁の母が支持してくれることによって、どうにか調子づいた。

ジジイとババアを敬うべし。
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2009年10月30日

おとなたちのいうこともわかる。オー、ヤー!09.10.22(木)。

10/22(木)。前夜。嫁と幼稚園検討。やはり「人間力」こそを重視するべきではないか。

1.立地条件(登園距離、周辺環境など)
2.園舎・園庭の造型美、ないしは自然美
3.指導者の「人間力」
4.いわば親の都合(登園距離、延長保育や給食の有無など)
5.「ロック魂」的要素

…5はともかく、だいたい以上のような理由で、親は幼稚園を選択するはずだ。そしてラッキーなことに、杉並区では選択肢が豊富だ。すべてを叶えることはまず無理だから、なにを最優先事項とするかが決め手になる。私は人間力と環境を兼ね備えていれば、それが現況で最善だと見なす。片親しかいないとかいう格別の事情もなく「親の都合」ばかりを最優先するなら、育児の苦労を先送りするだけかもしれない。(思春期で荒れ狂うかもしれないし、もっと先に持ち越すだけかもしれない。)

明け方に満天の星夢見。登場人物も多様だったが記憶に残らず。起動して『三昧王経1』読。

「(ボサツは)不平等なる見解からもろもろの衆生を目覚めさせる。」131頁

…テレビでは飽きもせずに覚醒剤事件の続報が放映されているが、そういうことよりも視聴者各々が覚醒するような真理めいたことに着目すればいいし、たとえばお父さんもお母さんも監獄に入るとか断罪されている子どもの悲しみを切実に感じ取れるような報道を志向すればいい。なにが視聴率をアップさせるのか、制作者は見極めが不十分なのではないか。もっとブッ飛んでみればいいのに、なぜ、いつのまに、テレビは危なげない表現だけに偏ってしまったのか。生放送で蛭子さんとか荒木さんとか岩井志麻子とか西原理恵子とかを起用してみればいい。

ギョーザめし喰って、9時半出動。U幼稚園「体験クラス」へ。

園舎と園庭は好ましく感じたが、「人間力」は不明。「お遊戯」レベルなら対応できるが、なんらかの不調を抱えている子ども(や母親)に対応できるほどのパワーを感じない。だから園庭を開放してくれる日があるなら利用してみたいというだけだ。

私たちは老いていく過程でようやく成熟するくらい、現代日本が「総幼児的」であるかもしれない。今さら「自己実現」したい親の心根にはなにがあるのか。それは幼児期に教育的ななにかを押しつけられたり、あるいは密着感を欠いてすぐに保育施設に委ねられたことによる喪失感に根因があるのではないか。

親の都合が優先される、そういう報道のほうが受け容れやすいのだろう。だから新聞やマスコミはほんとうのことを書こうとしないのだ。何度もくり返すが、「待機児童」などいない。親が参っているから、少子化がやまない。

あたりまえだが子育てによる現金収入はない。しかし魂を肥育する。その点においては親も子も同等だ。いろいろ事情もあるだろうから一概には言えないが、もう一度自分も幼児期からやり直すつもりで、子育てに専念してみてもいいのではないか。復職したり、パート収入を得ることと比較して、どっちがほんとうの「りやく」になるだろうか。
そして行政は、既存の保育施設を増やすことに専念するのではなく、「ポニョ」にヒントを得て老人と子どもの共生施設を創造するとか、廃校を利用するとか、アジア人民との交流を深くするとか、案出したり実現の可能性を探ることはできるだろう。

子どもが少ないから国力が衰退していくのか、国力をあまりに強くしようと努めたために民力が疲弊したのか。なんなら養老孟司的に「昆虫力」をはかってみたらどうか。オレはジジイになっても「ガキ魂」を保持して、おとなたちをボロクソにけなしてみたいぜ。「となりのトトロ」はとなりどころじゃなく、はるか彼方になるか、一切無縁になるだろうぜ。

午後。託児付きヨガのち、善福寺川沿いのミニストップで「買い食い」のような路上軽食。交通公園で閉園時間まで遊戯。


「Oh, yeah」のいうこともわかる、だけど3才児の気持になればいいのに。
今どきの「Oh, yeah」ときたら、自分の都合ばっかりさぁー。オー、ヤー!
(忌野清志郎より、勝手に改作)

私たちは今までなにをしてきたというのか。
偽善者は無農薬野菜を好んで喰うが、虫けらは嫌うらしいぜ。
いい気なヤツらだ、クソッタレめ。

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フォト:交通公園にて、岡本さんはサービス精神旺盛だった。
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2009年10月29日

キンダーガーテン凡夫。09.10.20-21。

10/20(火)。前夜。キノコ鍋とホッピー夜食。『日本霊異記』寝読して就寝。

翌。近頃では早起きだろう7時過ぎ。『三昧王経1』読。

「いかなる人も家庭に住みつつ、しかも最高の精神的な供養を実践することは不可能である。」125頁

…だから独身者は最高の境遇であろうし、もっと飛躍すれば路上生活者への同情は畏敬に変わることもあるだろう。絶対の平等心にいたろうとするなら、「家庭の幸福は諸悪の根源」(太宰治)という逆説的な言い方が身に染みるようでなければいけないのかもしれない。

朝飯。ミートボール入りナポリタン風スパはとうちゃんのみ喰う。わんたろうはシャケかじり、せんべいかじり、ミカンを少々とミロ牛乳。録画の『ポニョ』やら『クレヨンしんちゃん』見ながら午前中しのぎ。「しんちゃん」ははじめて予約録画したが、おとなが見ても面白いと感じた。言葉のやりとりが絶妙なのだろう。テーマは「婚活」だったり、「草野球」だったりするが、

「とうちゃんは草野球で2割5分のバッターなんだぞ、オレに任せろ」
「それってどういう数字なの? すごいのかどうかわからないよ」
「うーむ、確かに」

…というようなやりとりには、原作者の確かな力量を感じる。父親は微妙にバカにされていたり、母親は些細なことでイライラしたりする様子が巧みに描写されている。そしてこのような家族関係はおおむね現代の最大多数の家庭像に合致しているはずだ。だから親が見てもリラックスする。この漫画を「悪」だと見なす親とは、子どもが親の本心を見抜いているということを認めたくないから見せたくないだけだ。「母みさえ」と「息子しんのすけ」の関係には圧倒的な開放感があるのだということを認めることができないのではないか。なにを恐れているのか。そして恐れていることをどうして認めようとしないのか。親が言い負かすその都度に、子どもは緊張のあまり心を収縮させたり、「正しさ」を狭く解釈することを強要されるのだと感じたことはあるのだろうか。なあ、みさえ、そこんとこどうなんだ?

昼からヨガ。
となりの保育部屋からクレイジーな嬌声が聞こえるほどに安堵する。

ママたちの噂では、どこそこの幼稚園がインフルエンザで学級閉鎖になったとか。けれどその幼稚園は駅近辺で延長保育があるから、働いているおかあさんが多いのだと、ならば学級閉鎖は参ったことであろうと。

ああ、なるほど、その幼稚園は知っているし、あまりいい印象ではなかったのだ。ほんとうはなんらかの自己実現をしたいような母親が、子どもを長時間預けることが可能な施設として選択するのだということを明白に宣言することもできない欺瞞を見切っているのだけど、そういうことを個々に伝えることはどれほど困難か。「あの幼稚園はやめたほうがいい」ということを、どれくらいソフトに伝えることができるかは、相手の確信と迷いがどう揺れているか次第であるし、個人的に伝えることは余程むずかしい。聞く耳などない。いずれあの世で話し合おうか。

終えて、弁天池公園へ。
紅毛人が草っぱらにマットを敷いて「ド根性ヨガ」に励んでいる。私はタバコを吸いながら、「足の幅が広すぎるよ」とか、「だいたいでいいんだからもったいつけるな」とか、「うほほーい」とか、心の声を送っていた。

たまたま会った兄妹風の男児と女児は不思議なカップルで、兄に聞いてもぼんやりとしか事情がわからない。けれど兄は私に「おじさん、かけっこしようよ」と誘うので、原っぱのへりからへりまでヨーイドンしたら、情けないことに完敗した。その後も兄は不思議に私にナントカごっこをせまるが、実にわんぱくであるがゆえに頼もしくもあり、わんたろうも適宜刺激を受けている。

ようやく保護者らしき女性が来て、「これこれこういうわけで、この子たちは別に兄妹ではないけれどそうであるかのように仲がいいのですが、それはアレだから」とおっしゃるからには、そのアレとは、ワイルドかつタフなあれですか、などと問い、ちぐはぐなやりとりは次第に合致してきて、どうにか東南アジア的なアレだということが明白になり、「ならばイッパツやりましょう」とて、電話番号を聞くという行動を活発にやったのである。

どうだ?

オレは走り出すとけっこうやるぜ。
だけど銃もゴム製品ももってないぜ、オレはいつでも丸腰だ。

てきりぃずぃ。
てきりぃずぃ。
てきりぃずぃ。
(ボブ・マーリィー、「アイアン、ライオン、ザイオン」「イージィ・スカンキング」より私用)

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フォト:弁天池公園上空


10/21(水)。前夜。幼稚園話で酩酊。筆記難儀。

翌。家庭の円満が三昧をそこなうのか、単に虚弱のせいなのか、近頃読書貧困。とりあえず『三昧王経1』。「そうではなくて、まさしく法を思念しているのである」129頁。幼稚園選びであれこれ考えるのではなく、ワイは真理を追究したいのだが、その途上に幼稚園選びもあるので手抜きはできないのかどうか。凡夫。いちじるしく凡夫。

休日の嫁と本天沼の少人数特殊幼稚園へ。昨日公園で会った女児は笑顔でコンタクトしてくれた。私にはむずかしい教育理念はわからないが、約2時間園児らと同じ教室にいて、自分自身が体験を深めるような感覚があった。幼稚園というより、私塾とか寺子屋というほうが近い。残念なのは園庭がないことだが、「私塾」というのはそういうものだ。「高尾山に連れて行きなさい」と、園長先生がおっしゃっていたのは印象的だった。

昼。スカイ一家と妙正寺公園で昼食がてらひと遊びして、中瀬幼稚園説明会へ。
はじめて園内に入ったが、自然の地形をミニチュアにしたような園庭で、雑草も含めて多様な植物が繁茂していて、築山があるが雑草やらで荒れ放題の様子が実にタフネスでありワイルドであり、この園庭は別格であるという印象を深くした。

だからこそ、この園庭は園児限定利用にとどめるのではなく、有料でかまわないから、せめて週末だけでも開放してくれたらいいのに、と思った。


私には幼稚園時代の記憶がほとんどない。想い出すのは嫌なことだけだ。そして消えてしまった記憶は、もっと嫌なことだったのかもしれないし、なんともわからない。だからいつでも公園で会う幼児に、「幼稚園はどこ? 楽しい?」と聞くが、たいていは「楽しい」としか答えないから、その子の表情やわんぱくぶりや年少児への優しさによって憶測するしかない。

少なくとも私の経験はまったく参考にならないから、幼稚園を見学するだけだ。さいわいなことに、現代の杉並区ではあれこれ選択できるのだし。

わが子である幼児の教育保育を専門家に依頼するのであるから、その専門家が口先だけの不実な経営者であるか、それとも本気で幼児教育に熱意をそそいでいるボサツ的人物なのかどうかくらいは見極めたほうがいいのだろう。

てきりぃずぃ。

ゆるやかなリズムに身を任せ
心の鎖を解いていこう
時間と空間の枠を超えよう
魂を高く飛翔させるのだ
それがイージィ・スカンキング
(アルバム『ナチュラル・ミスティック』より、山本安見訳)

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フォト:中瀬幼稚園
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